東京の空には、朝から粉雪が舞っている。
この曇天にはキース・ジャレットがよく似合った。
もちろん彼のソロ・ピアノの傑作『ケルン・コンサート』もいい。
が、今日はピアノ・トリオ(スタンダーズ)を聴いている。
キースはね、唸るんですよ。
はい。
自身のピアノのよりデカイんじゃないかってぐらいの『アヘ声』なんですね。
音程なんぞおかまいなしである。
まるで、おっさんが熱い湯船につかったときの、
「あ゛ぁぁぁぁぁぁ」
アレだ。
ナニか突っ込まれたんじゃないの。
パプリカに脳内でやられちゃったんじゃないの、ってくらいに解放された声である。
ジャズの場合、大概のプレイヤーが大なり小なり声を出す。と思う。
むろん口を塞ぐホーン奏者はのぞくが。
ピアニストは特に、その声が記録されやすい。
なぜならグランドピアノの場合、蓋(反響板)をあけたそこにマイクをセッティングするからで、それは言わずもがな演奏者の顔の正面にあたるからだ。
ジャズというものは、プレイヤーがどれだけ解放されているか、それが演奏を左右するといっていい。
なんせインプロビゼーション(即興)あっての世界なのだから。
となると自然、プレイヤーは声を堪えるだなんて不自由を嫌うわけだ。
マグロじゃいかんと。
隣に聞こえたっていいじゃないかと。
むしろ聞かしてやれと。
しかし、いくら即興とはいえ、その自由にもちゃんと法則や決まりがあるわけで。
テンポやキーといった足並みそろえのほかにも、理論的な約束事がある。
またその都度独自に決めたりもする。
「鬼に影ふまれた人は、鬼ね」
遊びというものは、厳格なルールあってこそだ。
「ただし、のび太はのぞく」
みそっかすほど興ざめなものはない。
でしょ?
そして、約束事ごとにビバップ、クール、モードなどとジャズのなかでカテゴリー分けしたりもする。
とはいうものの、彼らはそれらルールを『縛り』とはとらえない。
というより縛りを束縛とは感じなくなるまで、ようするに心を開放しても逸脱しないようになるまで、彼らは自らを躾(しつ)けるのだ。
縛られて、飛ぶために。
ははん、
このエロ屋のことだ、
そこから淫靡で背徳的な展開をおっぱじめようとしているに違いないと。
そうお思いだろうが、さにあらず。
むしろ淫猥なあれやこれやを、ジャズに喩えているのだととらえていただきたい。
だから躾(しつけ)だなんてこわい表現は取り下げて、あえて『遊び』と言いなおそう。
日が落ちたのも気づかぬままに夢中で駆けまわっている、あの童心のひたむきとして。
どろにまみれ、傷だらけになっても笑っている、あの熱情として。
それはちょうどF1パイロットのドライヴィングのようなものでもある。
サッカー選手のフェイントや瞬間、瞬間のフォーメーションのようでもある。
はたまた、関取の目にも留まらぬ体のさばきだ。
熟考しながらでなくても勝手に体がそう動けるようになるまで、熟考し、トレーニングする。
遊ぶ。
ようするに自由を得るための制約なのだ。
ガチガチのルール固めでは窮屈だ。
けれども、まったくルールがないのはもっと厄介だ。
そもそも人間は本当の自由に耐えられるほど強くはないわけで。
なんせ遊びにすらルールと罰を決めずにはおられないように。
たとえ戦場にあっても、秩序を求めずにはいられない。
自由に生きても、盗りまくり、殺しまくりにはならんように。
そしてそれがあたりまえとして染みこむように、己を律する。
んなことも、
ジャズは教えてくれるのであーる。
結論。
おっさんのアヘ声は、心して聞くべし。
☾☀闇生☆☽
P.S.
ピアニストでは特にセロニアス・モンクを敬愛しちょります。
ジャズ・ジャイアントであると同時に、奇行の人としても有名で、また曲作りの『遊び』の達人でもあったのです。