壁の言の葉

unlucky hero your key

 
 その女は、
 純白のレオタードに深紅のガーターとストッキング。ボブの黒髪をそよがせてまっすぐに駆けてくる、少年だ。
 フォームは舞うようにゆっくりと。
 けれど、ぴんと伸びた四肢はまるでバレリーナのようで。
 目指すその美しき光の真下で、コトバを失う事態が待っているのも知らずに。
 それはそれは、無邪気に。


 WOWOWでNODA・MAP番外公演の『Right Eye.』が放映された。
 以下はその感想である。


 上演は一九九八年。
 牧瀬里穂吹越満野田秀樹による三人芝居。
 実は先日の『赤鬼』もそうだったのだが、闇生は戯曲をまえもって読んでいる。
 しかも音読で。
 本来、戯曲とは音にされるためにあるわけで。
 だもんだからライブの観劇ではなかったものの、読みながら抱いたイメージと実際の公演との違いをたのしむことができた。


 野田は自身が主宰した劇団『夢の遊眠社』時代に、片目を失明している。
 事実である。
 この芝居が描くのは、当時の野田を取り巻くてんやわんやの大騒動。
 それとそこに重ねられる、野田が病床で執筆する戯曲のなかの世界。
 それはカンボジア取材中に消息を絶った一ノ瀬泰造という、実在の男の物語だ。
 あの『地雷を踏んだらサヨウナラ』で有名な報道カメラマンである。
 そこで野田は『ノンフィクション演劇』なるものを書くと、宣言する。
 実際に起こったことだけで描くぞと。


 どうだか。


 と観客の脳裏をよぎった『眉つば』の、そのフィクション性までも利用して、またしても煙に巻くつもりだろうがっ。
 といった詮索もまた、彼は利用する。
 …のだろうがっ。
 挙句、どこまでが事実で、どこからがそうでないのか。
 観客は想像力を研ぎ澄ませて見守るはめになる、といった仕組み。…だろうがっ。

 
 ここでは、
 右目を『Right Eye』、つまり『正しい目』。
 左目を『Left Eye』、これを『残された目』と、あえて誤訳されている。
 うまいことを言う。


 野田は自身の失明をひた隠しにし、パパラッチはそれを暴こうと『血眼(ちまなこ)』になる。
 現在と違って、この上演時にはまだデジカメは無い。
 写真はかならず片目をつぶり、残されたもう一方の目でファインダーを『覗いて』撮っていた。
 その、覗く『血』『眼』は、はたして『Right Eye(正しい目)』なのか、どうなのか。
 さらに、劇中で野田が戯曲にする戦場カメラマン。
 彼もまた戦場を『覗いて』いるという意味で、パパラッチと同等ではないのか。
 違うのか。
 だとしたら、何が。どう。
 といった芝居仕立ての問題提議を、我々は劇場の闇から、あるいはテレビを通して『覗いて』いるわけで。
 野田は覗かせてもいるわけで。
 結果、
 やはり、まんまとしてやられるのであーる。


 この『覗き』の関係。
 わたしには、先日ここで触れた安部公房の『箱男』に重なって見えた。
 奇しくもパパラッチは、ときにダンボール箱に身をひそませて獲物を狩るわけで。
 加えて『空の光』と『その真下の惨状』についての印象的で美しいあのシーン。
 (音楽も良かった)
 空に咲く光の美しさに心をうばわれて、夢中で駆けつけてみると、その真下にひろがる惨状にコトバを失うほかない、というあのくだり。
 『たま』の曲に『学校にまにあわない』というのがある。
 『たまのランニング』ことメンバーの石川浩司のペンによるものである。
 登校をいそぐ少年が片方の上履きをなくし、探すうちに迷い込んでいく不可思議な道草をシュールな筆致でつづった傑作だ。
 ここでの少年はどうにか学校にたどりつくが、そのとき、巨大な花火がどーんと上がる。
 遅刻した少年は罰として、誰もいない校庭をいつまでもいつまでも、ずっとケンケンで走り続けるはめになる。

 
 巨大な光の真下。
 野田はその惨状を客観しているが、ここでの少年は悲劇を悲劇であると確かめる間すらなく、すべもなく、そしていまだ何が起こったのかさえも気づくことができないでいる。
 真下と、真下を『覗く』者の違いこそある。
 がどちらの光景も、




 白く、


 哀しく、


 おぞましく、


 不思議と静かで――。




 おや。
 今それを『美しい』と、
 こっそりそんな印象を抱きましたね、あなた。
 と、
 『覗く』我々に、意地悪くささやくのである。
 作り手は。


 最後に、
 牧瀬里穂の立ち姿が美しかった。
 きっとそれを活かしたあのコスチュームなのだろうし、演出なのだろう。
 三人芝居というシンプルさもいい。
 吹越のうまさが、この芝居を良く支えている。
 椅子やノートを様々な小道具に見立てるやりかたも相変わらずいいが、いったいどれくらい稽古を積んだのか。
 実際に体を動かしながらでなければ作れそうにないアイディアが、ふんだんに放り込まれてあった。
 ただ、せっかくのいい作品なのに、こればかりは野田以外が演じるわけにはいかないという点が。
 つまり語り継ぐようにリレーしていけないのが、惜しい。
 てか、もったいない。
 ねえ、
 そう思いません?
 



 ☾☀闇生☆☽


 補足。
 たまの『学校にまにあわない』の歌詞は、インディーズ時代にナゴムレコードから発表したアルバム『しおしお』ヴァージョンでは、『花火』ではなく、『原爆やら水爆』と露骨な表現にしています。
 なんらかの大人の事情が作用したのでしょうか。
 現在はこれも『ナゴムコレクション』としてCD化されております。