たとえば、
A君とBさんが向き合って話している。
A「どうやら、おなかがすいたのでございます、でございます」
B「はい」
A「………………」
B「――はい」
A「でございます」
B「なにか作れってか」
A「でございます」
これを映画のワンシーンとして撮影して、編集する。
嫌っ、と言ったってする。
してみる。
となると、つなぎ方はおおまかに言ってふた通りあるわけ。
全体をアングルにおさめる、というのはこの場合、置いてしまおう。
ひとつは、つねに話している方の顔をつないでいくやりかた。
もうひとつは、これとは逆に、聞き手側だけをつないでいくというもの。
セリフを聞いている人から、その応えを聞いている人へ。
ちゃんと演技ができている役者の場合、本当におもしろいのは後者の方である。
そうのたまったのは黒澤明だった。
のたまったっていいのだ。
偉いんだから。
セリフがなくとも、相手の言葉をちゃんと受けていさえすれば、その聞き手の顔のほうが雄弁だと。
だからマグロはつまらんのだと。
それにはABの関係を役者自身がしっかりと把握していなければならないだろう。
ただ順番を待って台本どおりに言いました。
それでは文字通り『話』にならんのだ。
この生きた反応のことを、名匠溝口健二は『反射』と、
そう表現して、執拗に役者にもとめたという。
「反射してください」
とな。
待つな、と。
ソープのお客様になるな、と。
ABが倦怠期の夫婦ならば。
最初のセリフを聞くBさんの表情は、きっと憮然としている。
当然、A君の最初のセリフのアクセントによっても、Bさんのふてぶてしさの度合いは違ってくるはずだし。
A君がマスオさんのように下から言った場合や、あるいはクレヨンしんちゃんっぽい場合だって、その都度リアクションは変わらざるを得ない。
そして、それは相手の演技に反応していてこそだ。
もし、彼らが新婚だったら、他愛もなくふざけあういちゃいちゃ感が出るだろうし。
頑固おやじのラーメン屋と客だったら。
はたまた認知症のご老人と介護士とか。
のだめと千秋とか。
そのシチュエーションによって、受ける側の反応はさまざまであるべきなのだ。
では、
これが舞台ならば。
カメラは。
つまり観客の視点は、それぞれの好奇心によるわけで。
いくらセリフの無い端役であったとしても、鼻毛のミほども気が抜けないのである。
うっかり『場』にそぐわないみょうちきりんをやらかして、他人の演技を、それもストーリー上重要なくだりを潰してしまうことだって、ままあるわけだ。
だから、反応の仕方にもおのずと客観性をもとめられるのである。
松尾スズキから、役者志望の若者へのアドバイスを求められて、野田秀樹はこう答えた。
まず足音を立てないこと。
呼吸音をむやみに出さないこと。
相手役の芝居をこれでもってぶち壊してしまうやつ。
そういうやつは自分が発する音に対して意識がない、と。
音に鈍感なやつは、リズム感もないぞ、と。
自分のなかから発せられるものは、音もふくめて責任をとれ、と。
(松尾スズキ編『演技でいいから友達でいて』岩波書店より、要訳)
ならば、
音楽はもっと如実だ。
なかでもアドリブで構成されるジャズは、ほとんど『反射』で成り立っているようなもの。
たとえばアルトサックスがソロをとっているとき、伴奏者たちはその即興を支えつつも、応えている。
ときに煽ったりしながら。
また伴奏者どうしの音楽的『おしゃべり』をしながら。
いい演奏とは、そんな相乗効果のデキをさすのだ。
では、これがもし鍋料理だったら。
いや、
譬えはこのへんにしておこうっと。
言いたいのは、実のところお笑いについてなのだ。
それは、年末にここで『すべらない話』を取りあげたときにも触れたことで。
トークしている当人だけでなく、聞き手側のリアクション芸もまた、笑いの作り手なのだぞと。
あの番組は、そんなチームワークも見どころなのだぞと。
というのもね、
もうね、
気になってしかたがないのだ。
『ガキ使』
あ。
言っちゃった。
闇生はもう、ずぅっと録りつづけている。
トークが減って、
お笑い打率がどんなに下がっても、録っている。
さぶい日のも、残している。
ヘイポー企画も、
さよなら山ちゃんシリーズも、何の因果か残ってしまっている。
『あばたもえくぼ』が恋ならば、
あばたをあばたとして受け入れる。
それが愛。
なんてのはとっくに通り過ぎて、もはや腐れ縁といっていい。
休日などは、BGMがわりに日がな一日流しっぱなしにしていることすらある。
で、思うのだ。
メインがなにかやっているとき、フレームの外にいるはずのメンバーの反応についてである。
以前からあんなだったろうか。
それとも、カメラに映ってないときだけ、気を抜くようになってしまったのだろうか。
彼は。
素で、茶の間のお客さんになっちゃっているときがあるのだ。
いまどき『茶の間』もないが、それほど隔世の感があるところから気を抜いて観ている人の、なんて言おうか。
よし、具体的に言おう。
『笑い声』だ。
笑うなら、笑う。
笑わないなら、笑うな。
ついそう言いたくなってしまう声が、ひとつあるのだ。
残念。
腹筋を鍛えろと。
垂れ流しにするなと。
笑いの当事者として、リアクションしてよと。
その笑う声もまた、あそこで生み出される『笑い』の成分のひとつなのだぞと。
などと、
かくもえらそーにのたまうエロDVD屋であるのだが。
実のところ、最後に笑ったのがいつのことだったのか、思い出せない。
んなわけはない。
「そのウンチ、
さながら、ぶちまけたキャラメルコーンのごとし」
先日、そうしたためたメールを、大切な方に送信した直後のことだった。
「ぶたまけたキャラメルコーン」
とミスタイプしていたことに気づいて、確か笑った。
んで、落ちた。
なんだ「ぶたまけた」って。
まけないし、ぶた。
ぶったまげたの、押しの弱い弟か。
そもそもなんなんだこのメール。
いったいどんな流れでこうなるというのだ。
ぶたまけられているのは、あたしだろう。
と、
突っ込みつつ笑っても、やはり独りであった。
ひとりの笑いは、やはりむなしい。
『反射』のやり場が、ない。
それは、さて置く。
で、覚えてますか。
ちゃんと笑った最後。
ひょっとして最近、顔の半分だけで笑ってません?
腹筋が痛くなるくらいの、
涙ちょちょぎれる、
もお、やめてやめて、みたいな。
いや、そこまでいかなくってもさ。
その笑いはちゃんと相手に『反射』してましたか?
反射しましょ。
ね。
いいかい。
きちんと『反射』しあえる誰かがいるっていうのが、喜びというものなんだぜ。
ザッツ・オォォォォォォォル♪
☾☀闇生☆☽