壁の言の葉

unlucky hero your key

 のっけからシモネタでいく。
 ゆるせ。
 こちとらしがないエロDVD屋だ。
 ようするにそんな身の丈だ。
 だから、あるものを説明するための譬(たと)えとして、そういう出だしでいくことに決めた。
 いま決めた。
 よい子は退散するように。


 世には『レズもの好き』という方がある。
 『レズ』ではない。
 『レズもの好き』だ。
 『レズもの』とは女性同士の、そのぉ、なんというか肉と肉との丁丁発止が記録されているものなのだが、その需要は必ずしもレズビアンだけのものではない。
 いやむしろその圧倒的大多数が、女体のくんずほぐれつの、その飽くなき行為を観るのを楽しむ男性たちだろう。
 断っておくが、ここで他人の性的趣向を嗤おうというのではない。
 『理性』と『獣性』とを行き来しつつ、『公共心』と『私心』との狭間で葛藤し、自分を殺さず、のさばらせずにどうにか社会と折り合いをつけていくのが個人というもの。
 ならば獣性そのものはだれにでもあるもので。
 ましてやエロなんぞはその主成分のひとつなのだから。
 嗤っちゃいかん。
 笑っちゃいやん。
 つまりは、
 『目くそ鼻くそを』式に、お互い様なのであーる。


 続ける。
 さて、この趣向の方々にその理由をうかがえば、
「だって男優のケツなんか見たくないし」
 と、おおかた意見は一致する。
 そう、女性のナニが目当てなのだ。
 同性の裸なんぞ、できれば見ないですませたい、と。

 
 人気男優や、
 はたまたSMの有名縛師などの例外をのぞいて、原則的に男優というものは歌舞伎の黒子(クロコ)に徹している。
 もしくは視聴者の代理として。
 だから女優さんより目立ってはいけないわけだ。
 だって、いないでしょう?
 女優さんより声のでかい男優。
 男優は脇役を心がけるし、観る人もそのへんを斟酌する。
 あいつは黒子であるのだぞ、と。
 俺の代理だぞ、と。
 けれども、先の趣向の方々は、そこんとこを斟酌しない。
 たしかに、紆余曲折を経た女優さんがようやく山頂に立とうというその瞬間に、おっさんの毛むくじゃらのケツが大映しでは、そりゃあ萎えるさ。
 おっさんの悶絶する表情でも、萎える。
 雄たけびなら、なおさら萎える。
 てか、怒る。
 んで、おちる。
 かといってシャドウボクシングが目当てなのでもない。
 観たいのは真剣勝負のタイトルマッチだ。
 できれば、視界をすべて異性に占拠されて。
 それはきっと、まだひとつの足跡もつけられていない銀世界。
 ならば自然と『レズもの』となるのである。

  
 で、
 ここからが難しいのだが、妄想として。
 では、そのめくるめく同性のいない世界に、自分が飛び込んだらどうなのか。
 まあ、対象のレズさんたちが異性である自分を仮に受け入れたとすれば、とりあえずはハーレム状態となる。
 問題は、それで自分は満足できるのか。
 一面の銀世界に焦がれ、さてそこに飛び込んでみてみれば、自分の足跡がそれを穢していく。
 そのジレンマは解決されるのか。
 そうと知って自身さえも忌避するのだろうか。
 いや、
 そこは人それぞれなのかもしれない。
 けれど、こうだったらどうだろう。
 その自己中心のハーレム状態を客観的に、どこかの誰かが見ていると考えたら。
 のちに自分がそれを観るとしたら。
 どうだろう。
 萎えないだろうか?


 ふう。


 では、本題に入る。
 『人志松本のすべらない話』という人気番組についてだ。
 もともと深夜帯でひっそりとはじまったが、ここへきて特番としてゴールデンタイムに進出するようになった。
 主催者である松本人志のもとに、夜な夜なお笑い芸人が集まって、ぜったいにすべらない持ちネタを披露していくという設定。
 ルールとしてネタは実話であるということ。
 そして、おなじ話を何度話してもかまわないということ。
 なぜなら、何度話してもすべらないからこその、すべらない話だからだ。


 まず、企画者の決意がすでにタイトルにある。
 ここ数年、うんざりするほど『すべり芸』が蔓延している。
 そんな現状への反旗とみた。
 それは、すべっちゃった、ということで笑いをとる芸である。
 もちろんこれの達人もいる。
 けれど、安易にこれを多用するのは、単なる逃げでしかない。
 その逃げを許さないという姿勢が『すべらない話』という宣言になっているのではないだろうか。
 これは決して話し手のみにのしかかるプレッシャーではない。
 聴き手である芸人たちのリアクションや返しに対しても、容赦なく制限をかける。
 『すべり芸』としてのリアクションなら楽ちんだろう。
 「さぶっ」と。
 また、
 話の否定(ツッコミ)も、この種類に属するからできない。
 まさにリアクション芸のみせどころなのである。


 この『夜会』、
 当初は、夜な夜なこっそりと開かれているという設定が、特に良かった。
 それがどういうわけか、いつ頃からか観客を入れるようになった。
 観客の生の反応があったほうが話し手のテンションがあがる。たぶんそんな理由だったのだろう。
 まあ、このあたりまではまだ良かったのだ。
 あそこにいた観客たちはあくまで純粋に観客であったからだ。
 それが、
 なぜか芸能人が観客として顔を出すようになってからが、非常によろしくないわけで。
 曰く、番組のファンだという。
 ならば、スタジオの隅からこっそりとのぞいていればいいのではないか。
 それをわざわざメイクをし、おめかしをして観客として顔を出す。
 顔を出すならもはや観客ではないだろう。
 観に来た、とはいうものの明らかに観られるためにも来たわけで。
 名前を出すためにも来たわけで。
 もちろん、彼ら自身にケチをつけようとは思わない。
 他の番組でなら、いつも普通に拝顔している方々だ。
 なのに、なんだろうか。
 そこは、そこ。大人の事情が働いているのだろうか。
 だいいち、彼らは芸能人であって、観られることのプロである。
 だから、リアクションも素(す)ではなく、技術としてとっている。
 芸人のそれとはあきらかに違う種類のものだから、違和感も半端ではない。
 芸人のそれは、笑いの現場を盛り上げる目的があるが、彼らタレント観客のそれは、結果としてプロモーションにしかなっていない。
 つまり場にそぐわない。
 そこにあらわれてしまうエゴが、とにもかくにもいただけない。
 げんなり。
 で、そこで気づいたのだ。
 これは、毛むくじゃらのおっさんのケツ、なのだなと。
 『レズもの好き』が萎えるのは、この気分なのだな、と。


 話し手の技術を受け手が支える。
 すとん、と気持ちよくオチがついてどっと笑ったその瞬間、
 『じゃぺーん』が、
 『花と蛇』が、
 『ほぼ日』が、どーんと顔を出す。
 なんなんだ。あれは。
 いったいだれが得しているのか。
 映された当人だって迷惑だろうに。
 なんせそれまではファンとして観てきたというのだから、それくらいわかるはずだ。
 銀世界を汚しちゃいかんということぐらいは。
 はじめ出くわしたときには、うどんを茹でるときのびっくり水かとおもった。
 萎えさせて、じらして、最後に弾けさせるのかと。
 あのオチの瞬間に、あえて彼らの笑顔を見せることに、どんな効果を期待しているのだろうか。作り手は。
 あたしゃ、まったくもって解すことができないのだ。
 なにより、あの瞬間が「すべっている」のだから。


 今夜またこれの特番が放映される。
 その番組欄には、こともあろうに、
 「豪華観覧ゲスト70人の顔ぶれにも注目」
 とある。
 また増えている。
 はて、なにゆえに?
 おそらくは70人全員が映るように編集に配慮がされているはず。
 はたしてそれが『笑い』に貢献しているのかどうか。
 繰り返すが、その人選や、タレント各々への文句ではない。
 寿司屋でシュークリームを食わされたり、
 クラブで『千の風になって』を聞かされたり、
 女体が見たいのにおっさんの毛むくじゃらのケツを見せられるのが、とにかくイヤなのだ。


 ☾☀闇生☆☽