シン

 いまさらかよ、と言われそうだが、言う。
 アマゾン・プライムなんたらで『シン・ゴジラ』を、初めて観た。
 どうにもこうにもパトレイバーなどの押井守監督作を連想してしまうよね。
 たぶんそういう人も多いでしょう。
 想定外の有事にたいし、現在の国家がどれだけ対応できるのか、というシミレーション。
 国際関係や法律もふくめてね。
 こういうのは往々にして政治家や官僚への人材批判に終始しがちだけれど。
 そしてその手の風刺は同時に大衆へのおもねりにもなりがちなのだけれど。
 その手のいかがわしさは、思っていたほど濃くはなかった。
 

 というか、バランスとして、もっと大衆批判を強めていいと思う。
 民主主義体制において政治家たちを及び腰にさせている要素のひとつが、大衆ではないのかと。
 つねに大衆の顔色をうかがわなくてはならんと。
 多数のために少数を切り捨てなくてはならない場面でも、それを阻む勢力が博愛に依る大衆であり。およびその煽動の旗振りとしてのマスコミではなかろうか。
 といって、むろん風刺に終始してしまってもつまらんのだけれど。
 そして政治家や官僚たちも、各々が国民のひとりなのだという事実も、描いておいてほしかったなあ。
 かれらの家庭が見えてこないんだよね。
 恋人や夫や妻子の存在が。
 対策本部だかにあれだけの大人がいるのだ。中継される街の破壊を見て、それが自宅付近であったりすれば動揺したり取り乱したりする人がいてもおかしくないだろう。
 むしろ自然だよね。
 その悲しみを心に秘めて決断を下すとかでは、やっぱクサいの?




 あるシーンで、大量のポンプ車が導入されていた。
 つまり民間の協力を得てのことだろう。
 実際、3.11直後の冷却水の問題が持ち上がったときに、ポンプ車の提供を名乗り出る経営者があった。
 そのあたりも織り込むとすると、二時間にはおさまらないのだろうか。
 
 

 ゴジラといえばその巨大な造形や破壊の様子ばかりがピックアップされる。
 んが、それも人と人のドラマシーンが丁寧に描かれてこそ活きているのだ、とはよく言われることで。
 それは特に一作目への評価として聞かれる言葉であり。
 監督、本多猪四郎への評価として定着しておりますな。
 今作ではトゥマッチな演技を抑えた演出なのだろうけれど、そのぶん余計に観客は『演技』というものに注目してしまいます。


 むかしデビューしたてのYMOについて。
 コンピューターを前面に押し出したその音楽を当時は無機質とし、
 また彼らのライヴでの演奏スタイルを『無表情』と評したものだった。
 コンピューターと同期するためにそのクリック音をヘッドホンでモニターしていたメンバーは、観客の反応から隔絶されて、演奏に没頭していた。
 つまり没頭する、集中する、あるいは夢中になるという状況で、人は無表情になるということ。
 だから現実で危機におちいったとき、意外と人は表情が無い。
 勉強しているときとか、キャベツのみじん切りに集中しているとき、表情は消えている。
 ただそれを意識しておこなうと、無表情という演技になる。
 結局、演技は消えない。
 おもしろいですな。
 


 余談として、
 ケービというあたくしの仕事柄、各モブシーンに映り込む警備員たちに気が散った。
 夜行チョッキに、おろしたてのような折り目がついていたり。
 誘導動作が「演出家に指示された通りの動きをしてます」みたいで、不自然だったり。
 全員が、勤務初日のド新人の動きだ。
 合図というものは伝えるためのもの。
 つまり言葉だ。
 しかも緊急事態での誘導なので、おのずと意志が動きに(言葉に)現れる。
 そこに個人があらわれる。
 音にならないセリフがあるのである。


 たかがエキストラ。
 されど彼らも人を演じなくてはならない。


 追記。
 米軍が参加してゴジラを攻撃するのは、突飛だと思ふ。
 実際なら静観するでしょう。
 救援はさしむけるだろうけれど。
 米国本土への危機がないかぎり、いくら同盟関係にあるにせよ、あれは無いでしょーな。






 ☾☀闇生★☽