有休二日目。前編。
ひとりもんのおっさんの休日シリーズ。
シリーズ化すんのかよ、という話だろうが。
所詮はだれに迷惑かけるわけでもなく、又かけることすらできない、社会的に非力なおっさんの単なる思いつきにすぎない。どーでもいい。
だもんですまん。昨日にひきつづき、ちょーしをぶっこく。
美術館だ。
しかも青山だ。
なんか黒っぽい服をきて髪ぱっつんにした細身のおじょーさんたちが、ブーツのヒール音も高らかに、つんけんして闊歩しているイメージのある、あの青山だ。
地下鉄表参道駅A5出口から徒歩8分。
などと親切めかしたことも記しておく。
はて『香合(こうごう)』とはなんぞや。
お香ケースのことである。
茶道などの席で炊くお香を収納する蓋つきのものをそう呼ぶらしい。
なので手のひらに収まってしまうほどの大きさで。
それでいて動物や楽器をかたどっていたり、表面に緻密な幾何学模様がほどこされていたりするものだから、有体にいって「かわいい」と。
材質は大きく分けて二種類だ。
漆塗りの木製と陶製のもの。
お茶の道具として確立されたということは室町時代あたりから価値がぐんとあがってきた感じだろうか。
初期は代用品でまかなったというが、そのうち専用につくられることになる。
なんと贅沢なことだろう。
利休なんかが「それ、なんかいいじゃん」などとうっかり指さして言おうものなら、その一族の家宝となったに違いない。
『織部』の名のつくものも何点かあったので、つまりまあ、そういうことである。
初期は唐や東南アジア方面からの輸入が目立ち、のちに注文制になり、そのうち国内でも生産されることになった。
江戸期には徳川御三家がその藩邸内にしつらえた小規模な窯で製作したりもしたそうな。
しかしまあ、細工がこまやか~。
あっきれけえったね。
メガネをもっていって正解だった。
ひとつひとつガラスケースに顔を近づけて文様をにらみつけてたった。
『色絵ぶりぶり香合』野々村仁清作 17世紀
などと書かれてある。
なんだよ『ぶりぶり』って。
チラシの写真には蓋をあわせた状態でしか掲載されていなかったのだが、展示状態は蓋を外してあるものもいくつかあった。
なかでもこの『ぶりぶり』の内装には、おどろかされた。
これを質素な茶室でさりげなく開けば、客の度肝を抜いたに違いない。
で、毎度思うのだ。
こういった美術品はそもそもは実用品であったのが、技術の向上心に如何ともしがたい遊び心がはたらいてしまって、やがて芸術と呼ばれる域のものになっていったのだろうと。
単にお香のケースだと考えれば、現代ならダイソーあたりにいけばそれに適ったプラスチックのケースはあるわけよ。
それで足りてしまうのね。
けど、そうじゃないぞと。
もっと遊ぼうよと、といった遊びの精神から発しているのだな。きっと。
いわずもがな遊びとは実用からかけ離れたものであって。
有体にいえば『無駄』な部分である。
無駄をどう愉しんだかが、その国柄に文化という足跡になって残っていくと思われ。
豊かさとはそんな遊び心ではないかと。
相撲にならって、なんと香合の番付表までつくっていたよ。先人たち。
無駄を楽しんどるわ~。
そもそも嗅覚であそぶというその行為自体が、あたしらの生存を継続するのに不可欠なものではなく。
通常ライフラインには勘定されない。
ただし、生きていくのには、無いよりはあったほうが断然いいと。
なんならその製作に人生をまるごと費やした職人もいただろうし。
それをさして無駄な命の使い方とは、さすがに誰も言わんだろうと。
昨日のブリューゲル展とはちがって、こちらは外国からの観光客が多かった。
さもありなん。
美術館の外には日本庭園がひろがっていて、鑑賞後にはそこをぶらぶらして思いに耽ることができる。
がんばって耽るべし。
思ひに。
3月31日(土)まで。
根津美術館
www.nezu-muse.or.jp
☾☀闇生★☽