ケービ。
まあ、なんというか、
いわゆる『底辺』に属する業界にあたしゃいるわけなのだが。
職種的にはあれだ、
リストラや自営業の斜陽や倒産によって図らずも中途からこの業界に足をつっこむ人が多い一方で。
他方、学生時代にアルバイトとしてかかわって、腰かけのつもりがずぶずぶと日当暮らしに染まってしまい、求人情報に提示される各社の初任給額と、現在の連投かせぎとを見比べているうちに、気づけば、
「あらま、中年どまんなかだわ」
なんていう生え抜きも少なくない。
んで、
まがりなりにも他の業界で社会経験をしてからこのギョーカイに転がり込んできた人たちからすると、生え抜き派の価値観や言動に驚かされることが多く。
そんなこんなであまりに唐突だが、
すまん、
『ショーシャンクの空に』を観たのだ。
ひっっっさしぶりに。
Amazonプライムなんたらで。
もともと知る人ぞ知る映画だった。
にもかかわらず、全盛を誇ったレンタルビデオ時代に口コミで広がった。
広がるあまり使い込まれてびろんびろんになっちまった昭和のお父さんのパンツのごとしで、あれよあれよといううちに、いまや好きな映画にこれをあげると逆にダサいことになってしまうという事態であーる。
びろんびろんの勝負パンツだ。
こまったもんだ。
お父さんは。
あらためて思うのだが、ティム・ロビンス主演で、脇がモーガン・フリーマンなんて、渋すぎっしょ。
ヒットさせる気ないっしょ。
とまあ、語りつくされた観のあるこの映画なのだが。
数十年(40年?)の長期刑を食らって塀のなかで図書係をしている老囚人が登場しますな。
晴れて仮釈放となるのだけれど、その決定を知って彼は怯えるのね。
こわいんだ。
慣れ親しんだ塀のなかから出るのが。
入獄当初は塀に閉じ込められている、と思っていたが、いつのまにか塀に守られていると思うようになるらしく。
40年の時間差というのは残酷で、街の様子も文明の利器も、人々の価値観もすっかり変わってしまっている。
そのあたりの感覚はいまのあたしたちでも想像がつくだろう。
スマホだのケータイだのネットだの、んなもんはここ数年のものでしょうに。
最後の日本兵小野田さんだって、結局、現在の日本に愛想をつかして一時期はブラジルに行っちゃったくらいですから。
その塀のなかにいる限りは有名人だ。
でかい顔もできる。
けれど一歩外に出れば、塀のなかの価値観も通じなければ、知名度もなく、とどのつまりが通用しない。
で、
あたしらのケービ業界の『生え抜き』たちは、まるであのショーシャンクの老囚人のようだと。そんな話になったのであーる。
現状をあの映画にたとえたのは、なにを隠そうこのあたくしだ。
んが、同時にこうも思うのだな。
それはなにもあたしらだけのことではないだろうに、と。
他業種だってそうだろう。
現状のあなたがいるのがその時間、その環境ならば、それがあなたの人生の現場であることには変わりはない。
どこであろうと、自分の現場だ。
『泳げないのを川のせいにして海に行っても泳げない』
とは誰の言葉だ。
闇生だ。
はばかりながらもこのあたくしだ。
外と中では、まるで違うように思ってしまう。
てか、思いたいんだな。実は。
負けの言い訳にもしたいし、現状の慣れ合いにぬくぬくとしてもいたい。
犬の散歩に行かなきゃならないのにコタツからは出たくない。ニンゲン、出なくていい理由付けをつい考えちゃうもので。
違いなんてのはたかだか視点の違いにすぎず、共通点だって実は山ほどあるのだ。
あの塀のなかの面々のような奴らは、それぞれがそういう典型であると考えれば、外にだっている。
なんせ、もともとは外にいた連中なのだから。
あの所長のように信仰の篤い悪者もいれば、権力を後ろ盾に横暴をふるうあの看守のような者もいる。
ましてや、いじめなんてのはどの社会にでもある。
むしろ社会のほうが、ある。
時として社会こそがいじめだという解釈すら成り立ってしまう。
音楽。
心の中の音楽は、誰にも奪えない。
強いよね、この言葉。
塀の外だろうが、中だろうが、塀のなかのさらなる塀の中だろうが。
奪えないのは音楽だけじゃない。
詩、
映画のワンシーン、
芝居のセリフ、
思い出、
好きな人の声、
匂い、
故郷の景色、
音。
心にいれて、裸ひとつでどこへでも持ち歩けるものたち。
幾重もの塀を共にこえていけるものたち。
誰にも奪うことのできないものたち。
あなたはいくつお持ちですか?
☾☀闇生★☽
たまにはスマホ無し、
携帯音楽プレーヤー無し、
イヤホン無しで、外に出てみませんか。