袖口からタトゥが見えたのである。
夜勤帰り、
いつもの宅飲み、
朝酌の肴を買いに立ち寄ったお気に入りのコンビニで、釣銭を渡す店員の袖口から、にょ~んとね。
胸のネームプレートには若葉マークがあるし、見慣れない顔でもあったので新人さんなのだろう。
緊張しつつも受け答えは丁寧で、ひとつひとつ確認するようにレジ作業を進めている。
袋詰めも慣れないらしく、ネタと袋のサイズがまるであわない。
買い物を詰めたコンビニ袋は、さながら幼児用水着を見せられた力士のごとき有り様であったが、それはまあいい。
てか、好感度な接客であーる。
にもかかわらず、釣銭をわたすその袖口からタトゥなのだ。
あたくしの心は一瞬、ちょびっとだけ、ひいたのね。
すまん。
しょせんはおっさんだ。
あとから追っかけてくる理性や理屈や正論はこの際おいといて。
タトゥ。
今日び、任侠や罪人の印とは無関係な、ファッションだと人のいふ。
それはあたしも理解する。
んが、やっぱその瞬間は、ひいた。
これはしょうがない。
けど、ちょっとだけだった。
それは、初対面のひとにいきなりため口をきかれたような感触。
おいおい、距離感の無い人だなあ、と。
そのタトゥはフォーマルではなかろうに。
百万歩ゆずったとして、かりにファミリーマート、セブンイレブン、サンクス、ローソン、サークルKのロゴをタトゥにしていたとしても、所詮は私事だ。
いわば、ため口だ。
どんなにかしこまってみせても、ため口はため口だ。
それは当人も本意ではなかろう。
『私』と『公』、
そいつをTPOに応じて使い分け、あるいはミックスし、加減したり強調したり、もしくは協調したりというその『自在度』にこそ『個性』は宿るもので。
他者や他のコミュニティ、文化との接点にこそ光るもので。
そこをこなすさまを人は自由と呼ぶ。
私人と公人を柔軟に、潤滑に行き来するそのさまが個人なのだな。
藪に飛び込んで蚊に刺されて、それを蚊のせいにしているだけでは埒は明かぬ。
蛇にかまれて蛇のせいにしていてなんになる。
世界は、私のごり押しだけではサバイバルできないことばかりなのだな。
『クレイジージャーニー』で有名になった写真家ヨシダナギは、取材対象が裸族なら自身もそれにあわせてまっぱで取材した。
まあ、そればかりが正解ではないのでしょうが。
がんばれよ、初心者マーク。
あたしも引き続きがんばる。
☾☀闇生★☽