松尾スズキ作・演出
日本総合悲劇協会の『業音』再演、池袋シアターイーストにて。(8/13)
あらすじは公式でどうぞ。
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しかしなんだ、役者の半数がなんだかんだでケツ出す芝居ってのもあれだな。
あれだよ。
生で見る他人のケツの威力。
そう、ケツ威があった。
初演が当時スキャンダリスト全盛の荻野目慶子へのあてがきであったという。
客演で有名どこを呼ぶときは、かならず壊しにかかるね。松尾スズキは。
定着したキャラクターイメージとか。
あるいは当人のすかした自我とか。
もんで、なぶって、追いつめて、ぶっこわして、さあ出しちゃえよと。
そういった観があります。
いやらしいです。
てか、演出家ってみんなそういう気がありますな。
ましてやこの芝居、業にとらわれ業にからめとられるどろりとした混沌を描いているわけで。
世間から目を背けられている事々を手当たり次第に放り込んだごった煮仕立てにしてあるという。
ダシの染み加減も火の通りもまちまちで、なかには溶け合っていないように感じるものもあったりして。
いや、松尾は口当たりの良さなんぞ目標になんぞしていないのだろうが。
ごった煮の鍋は観客の頭であって、とりあえず放り込んでしまえと。
どうよこの違和感は?
きもちわるいだろ? な?
的に半笑いで試されているような感触があり。
差別や偏見や不謹慎や非常識も逃れられない業の一部だぜ、とばかりに「このケツ喰らえ」をかまされた風情があった。
今回は自分とこの劇団から平岩紙を主演に抜擢。
はたしてもうひと皮むくことができるのかどうかは観てのおたのしみといったとこでしょう。
ネットの書き込みなどを見ると、女優の裸が全部見えたかどうか、それがきれいだったかの話題に終始している。
だもんでウケた。
むろん書き込みはネタとして裸に固執してんでしょうが。
笑った。
物語からすると、グラビア的な裸の美しさはむしろ邪魔っけだ。
松尾自身が中年のたるんだ裸体をさらしていることからもわかるように、心と体の醜さまでひっくるめてニンゲンでございましょうと。
踊り子がWキャストであたしが観た回は舞踏家、康本雅子。
本公演の振り付けもしている。
歌舞伎でいう黒子の役割に近いのか。
衣装は全身白だったが。
妖精のような、抽象的な存在で、
業のドブのなかにひときわ美しく、印象に残った。
伊勢志摩。
よいっす。
たぶんあたしが観てきたここ最近の大人計画の伊勢志摩歴では、一番良かった気がする。
皆川猿時。
安定の皆川さん。
生の人間の迫力ってすげえなと。
腹、すげえなと。
開演前に本公演はカーテンコールはないと告知される。
たしか理由は「演出の都合」からだったと思う。
あたしゃ日頃からメジャー劇団のカーテンコールに社交辞令のような、あるいはお義理のようなものを感じてしまっている。
あれ、決まってかならず2回ほどやるね。
で、お義理は果たしたとばかりにお開きっていうあのノリがさ。
いやだった。
けど、少なくとも明確なカタルシスには落ち着けない今回のような混沌とした芝居の場合は、余韻のなかで振り返る時間はほしい。
終演するとただちに場内に明かりがついちゃってさ。
となれば同列の観客の退場のために席を立って通路をあけてやらねばならないわけで。
もうね、落ち着かないのよ。
もう少し余韻に浸らせてよと。
カーテンコールがダメでも、なんかなかったのかなと。
映画のようにスクリーンにスタッフロールとかさ。
ラストの平岩紙と、
聖書のとある有名なエピソードを重ねて思い出しつつ、帰った。
補足。追記。
あたしの座席位置は一番後列の上手側の端から3席目。
距離と角度的にはべつに不満もない。
んが、開演直後の感想が「声、ちっちぇ」。
聞き取れないほどではないし、慣れてはくるのだが。
もうちょっと声張ってほしいなと思うシーンが何回かあった。
さらに追記。
時事ネタっていうのはあれですな。
鮮度と不特定多数への認知度を図るとすると、哀しいかな、いまだテレビのワイドショーレベルに落ち着けるしかないのでしょうな。
いや、これはけっこう劇作家たちにとっては年々考えどころになってはいると思います。
☾☀闇生★☽