公衆浴場でのタトゥ問題。
現代人の刹那的な気分だけで決めないでほしいなとは思う。
風潮に流されるようにして変えるのもどうなんだと。
ただ個人的にはね、文化のちがう国の人の問題はいったん置いといて。
風呂は裸の付き合い、というじゃんか。
それこそ王様だろうが、大臣だろうが、大会社の社長だろうが、
有名人だろうが、
しがない失業者だろうが、日雇いだろうが、派遣だろうが、
服を抜けばみな同じだ。
それこそ外国人も。
そこんとこに内風呂とは違った醍醐味があるわけでね。
偉いも偉くないもないのね、あの空間は。
野郎ならみんなパンツ脱げばしょーもないチ○コぶらぶらさせてるわけで。
普段どんなに汚い作業着を着ていようが、ブランド物のスーツできめていようが、脱げば大概がしょーもない。
けど、タトゥだか刺青だかが入ってるとね、そんな裸の空間にそのひとだけ服着て入ってきたような。
そこに裸のニンゲン以外の何かが発生するわけでしょ?
社会性が。
背景が。
心のチ○コをそいつで隠してる。
おいおい服(鎧)脱げよ、と思ふ。
なんだよ、心のチ○コて。
なんでもかんでも差異を撤廃してくのも個性の否定にはならんのかね。
文化ってのは、利便性の対岸で、ある一定の歳月をしのいできたものをさすわけで。
そもそもこの問題を「外国では」という文言で片付けようとするのもどうかと。
その当の外国人たちは、日本的なものに興味を抱き、惹かれたから訪れているわけでしょ?
京都もアキバも、そういうことでしょ?
そしてそれは自分たちとは異なる文化への好奇心であるわけでしょ?
ならばだ、
乱暴な言い方をすれば、排他性もまた、文化のひとつと捉えることができませんかね。
簡単に言えば、彼らはマクドナルドや東京ディズニーランドで流暢な英語でもてなされいと思って来たのではなく。
たとえば沖縄の御嶽(うたき)の深奥にもうけられた男人禁制の神域に拒まれることもまた、文化への接触であるわけで。
そこを国際基準にあわせてノーボーダーにしてやることではないと思うのだが。
しっかし、
相撲の土俵の女人禁制にはつべこべ言う癖に、御嶽に対してのクレームは聞かないね。
電車の女性専用車両とかさ。
こないだはレンタカーで女性専用車があるのをウリにするポスターを目にしたよ。
いいんだけどね、こうなってくると日本の女性はもはや人間じゃないみたいだ。
まるで隔離されたがっているみたい。
どんなクリーチャーだよと。
でも学校にしろなんにしろ性別で分けるの好きですな。日本は。
それも民族性というか、国柄なんですかね。
ま、いいや。
文化というものは文明に蹴散らされていきます。
文明はめんどくさがりです。
利便性を追求し、無駄を徹底的に省いていきます。
文化は無駄や不便にこそ宿ります。
そして文化は、それぞれの地域で異なるが故に、その違いを個性として尊重し合わない以上は突き合わせればかならず衝突します。
衝突の解決策はいつも、利便性としての折衷案か撤廃。
多数側、つまり強者側の文化の押しつけ。
そしてそれを『進歩』と捉えます。
近代化とも言うでしょう。
ああ、いいことをした。
ジャスティス!
つまりが文明なのでございます。
文明は文化を駆逐します。
良し悪しは、言いません。
物差しの置きかたでころころ変わるでしょうから。
自由も平等も人道も、そして個人主義も、えてして文化を嫌うのです。
まず生きることそれ自体が、非効率的なるものの最たる行為ではないでしょーか。
人生の主成分は夥しい数の無駄にちがいありません。
それらのことごとくが不便でもあるでしょうし。
有体に云って「邪魔っけ」であり「めんどくせえ」です。
どう太刀打ちしても、それらを完全試合で封じ込めることはかなわないでしょう。
ならばそれらの不便やら無駄やら徒労を、どうやりくりして楽しんだか。
遊んだか。
文化はそのスピリットに寄り添うのです。
というわけで、週末は日帰り温泉にでもどうすか?
ひとりでのんびりと。
連休だし。
ま、あたしゃ夜勤がありますゆえ。
今からジャンプを買いにコンビニへ行く所存。
一杯やりながら、ハンタ連載再開のニュースを確かめまっす。
☾☀闇生☆☽