かてごらいず。

 カテゴライズというものはある種の整理整頓でございますな。
 で、その仕分けのためには、区別のための基準を設定せねばならず。
 あれはあれ。これはこれ、と。
 厳密に仕分けるならば、その基準はより具体的でなければならず。
 基準というやつは曖昧さや抽象化の方向ではなく、数値化や具体化した先に針の穴のように見えてくるものでえ。

 
 しゃっちょこばった言い回しをしてみたが、誰もが対人関係でフツーにやっているのだ。
 俺は俺であいつは他人、とか。
 同じ他人でもこの人はお隣さん、だとか。
 友だち、だとか。
 親友、だとか。
 外国人だとか。
 家族だとか。
 家族だけど、血はつながらないとか。
 年上、年下、先輩、後輩、上司、部下、同僚、お得意さん。
 お得意さんの幹部。
 お得意さんのぺーぺー。
 ペーペーのデブのほうとか。ヒゲのほうとか。
 痩せの方とか。
 新人とベテラン。
 外人のベテラン。
 使える新人。
 使えないベテラン。
 関西弁の新人。
 同郷人。
 背丈の高い低い。
 年齢。世代。干支。血液型。
 さらに、具体的になっていって。
 プロ野球好き、とか。
 オリックスファンであるとか。
 ミリヲタであるとか。
 同じミリヲタでも、第二次大戦専門だとか。
 さらにはドイツ軍専門だとか。
 歌が好きだとか。
 それも演歌だけとか。
 にもかかわらず音痴だとか。
 実家が金貸しだとか。
 眉毛がふといだの、おっぱいがでかいだの、息が臭いだの、毛深いだの。
 イケメンだの、ブサメンだの。
 おっさんだの若ハゲだのと。
 同じハゲでも、イケてるハゲかイケてないハゲか。
 金持ちか貧乏か。
 などと、そうやって整理していくことで思考や認識をやりくりしている。


 その基準のもっとも公的で日常的にメジャーなのが『住所・氏名・年齢・性別』加えて『職業』あたりだろうか。
 昨今ではこれにSNS的なことも含まれるのかもしれない。


 ただね、これらの仕分けというのは、どこまで厳密にやっても限界があるのね。
 それも「キリがない」という意味での限界。
 ん?
 てことは、つまり無限かよ。


 おいおい。


 結局のところ区別をつけていくことで、あたしたちは自他を成り立たせていくしかないのだが、その行為は底なしだということ。
 ましてや、観測者である自分というそれ自体が、つねに代謝をしつづけてうつろいでいくのだから。
 生命は変わりつづけることで成立しているのだ。
 止まらない。


 その本質的な孤独は峻烈であまりにしんどい。
 なので、ほどほどのところで共通点を見出して、何かに属そうよと。
 つるもうよと。
 群れる。
 グループを作る。
 いたわり合う。
 温めあう。
 傷をなめ合う。
 往々にしてこのグループもまた、他のグループや種と区別(過激化すれば差別)することでよしみを深めようとする性質があって。
 ところがこれは性分として具体化せずにはおられないニンゲンの、気の紛らわしに過ぎないのね。
 ま、人生てのはそんなものですが。
 紛らわしでやりくりしていく。
 言い換えれば孤独の紛らわしである。
 自他の共通点にこだわるのは、裏返せば自他の違いにばかりとらわれているということであって。
 けっきょく、しんどいことには変わりないのであーる。

 


 んじゃあ、そんなしんどいことはいったん棚に上げて、逆の方向で考えようじゃないかと。
 きびすを返して具体化ではなく、つったかたー、つったかたーっと抽象化の果てを目指すのである。
 自己と他の共通点を見出すべく。
 人種も性別もひっくるめてみんなニンゲンじゃねえかと。
 てやんでえ。
 動物ともひっくるめて生物じゃねえかと。
 モノともひっくるめて有機物じゃねえかと。
 無機物ともひっくるめて有じゃねえかと。
 じゃあその有と無とひっくるめたら、なんなんだと。
 …空と呼ぼうじゃないかと。


 しまった。
 なんか話がとてつもなくでかくなった。
 身の丈をはるかにこえて御釈迦さまが出てきちゃったよ。


 なんでこんなことを考えているかっていうと。
 例のゲイであることをカミングアウトしたらその相手にアウティング(ばら)されて、自殺してしまった事件についてつらつら考えていたのだ。
 記事を読むと、バラしたのは彼が告った相手だったという。
 たとえゲイでなくとも、恋愛感情を抱く相手にその想いを告白する心情は、想像できると思うのだが。
 できなかったんだろうな。
 自分が属する集団との差異を、おもしろがってしまった。
 ましてや、ゲイであるというカミングアウトも兼ねているのだ。
 想像しろよ、と思う。
 想像してこそニンゲンだろがと。
 彼。どんだけ思い悩んだだろか。
 痛ましい。
 

 ただね、窮屈な世の中だと思う。
 性差について考えれば、たとえば江戸時代以前の価値観は、現在ほど窮屈じゃなかったらしい。
 生物学的な男子どうしが性愛行為におよぶ、ということは実際にあった。
 んが今のような『同性愛』という概念自体が輸入されていなかった。
 ましてや、それを根拠に迫害を受けるような社会でもなかった。
 戦国武将と寵童の関係が、そのまま今の感覚でゲイかといえば、違う気がする。
 寵童出身の武将も珍しくないし。
 彼らは妻帯もしていたのだし。
 江戸の芳町にあった陰間茶屋というのは女装した男娼が性的なサービスをするところだった。


 芳町は坊主背負って後家を抱き。

 
 貝合わせという大奥で遊ばれたゲームが、そのまま女性同志のソレを指す隠語になったのも、最近のことではあるまい。
 暇な妾さんどうしがおっぱじめたとかいう説もあるくらいで。
 おおらかじゃありませんか。江戸。


 それらがタブー視されていったのは、流入してきた海外の概念によるのだろう。
 そもそも経典が存在しない神道はむろんのこと『日本の仏教』の戒律にはそれらを禁じた項目が無いのではないか。
 同性のね。
 であるからこそ『坊主背負って』にもなるわけで。


 輸入元、つまりオリジナルの概念それ自体は土地柄と言おうか、その国の歴史と伝統にもとづいて自然とした流れで形成されてきたのだろうけれど。
 彼らの価値観の強固な後ろ盾として、宗教が厳然とあるわけだが。
 タブーをタブーたらしめる方便がね。
 んが、こっちゃそこまで見抜く暇もオツムもなく、近代化とごっちゃにうけいれちゃった。
 というか空腹に気付いて、見様見真似で食いついた。
 なんか高そうな店に入って、生まれて初めて見る料理を出されて、食べ方がわからないから周囲の人たちを猿真似して食ってみた、みたいな。
 この国の価値観とはちょいとズレていたにもかかわらず、それを飲み込んだと……。


 またハナシが途方もなくなりそうだ。
 あたし程度のオツムでどうのこうのできる話題ではないことはわかっている。
 そんなわけであたしの場合、その手のことにはおおらかにかまえているつもりであることは記しておこう。
 んが、ここ数年叫ばれている『LGBT』という『仕分け』も、否定こそしないが、かといってもろ手を挙げて賛同もできないひっかかりがあるとも書いておこう。
 どんなに仕分けしても、具体化しても、そこから零れ落ちてしまう人は必ずいるのだ。
 細分化するほどに部屋は、居場所は、窮屈になるばかりだ。
 零れ落ちることをきらって手近な小部屋への擦りよせも生じれば、同時にその差異から差別も生じる。


 繰り返す。
 キリがない。 



 カミングアウトをした方も、それを面白がった方も、知らずに窮屈な概念の小部屋に閉じ込められていたのだと思った。





 追記。
 そもそも、恋愛という概念も、大昔はどうだったろう。
 無かったとはいわないが、いまと性質は少し違っていたのではないだろうか。

 




 ☾☀闇生★☽