自由とか、
未来へとか、
希望(ゆめ)とか、
明日とか、
空へとか、
far awayとか、
そういった現実逃避ワードがアニメの主題歌なんかに出てくると、萎えるのだ。
あたしゃそんなお年頃だ。
んなこと歳のせいにするなという話だが。
なんか空疎じゃないすか。
同じ空っぽなら、徹底した言葉遊びのほうが、断然おもしろい。
ぱっぱぱらぱー♪
そういうとじゃあしみったれた現実を歌えというのか、と反射的に頭に浮かぶのだろうけれど。
うん。
どうだろう。
現実をしみったれたものにしているのは、あんたの勝手だよ。
とかなんとかぬかしたまんまに、その件はどっかへ置いとく。
……と現実から逃避したうえで続けよう。
たとえば『ゲゲゲの鬼太郎』なんてのはよくできている。
妖怪の日常をうたっている、ということは裏を返せば人間にとっての非日常なのであり。
ようするに裏側から人間の現実を歌っているわけ。
朝はいつまでも寝床でグーグーさせてもらえないのが人間であって。
基本的にたのしくない、たのしくない。
なんせ学校やら試験やらなんやらあって。
むろんその先には会社も仕事もあるわけで。
病気やらなんやらあった挙句には、結局みんな死ぬのだぞと。
ひとりの例外もなく死ぬのだぞと。
おまえは必ず死ぬ。
死ぬ。
なぜなら人だから。
そういう歌である。
だからどうした。
どうもしない。
その解釈の仕方でいけば、ファンタジー(非現実)作品であたりまえに歌われる希望やらなんやらというのは、どれも『現実に非ず』なことなのだということ。
そういうかたちで現実を歌っているのだと。
だからなんだよ。
なんでもない。
どーもしないし。
どーしよーもない。
そこんとこをこっそりと愉しむのだ。
そこに遊びがある。
遊び場に遊びがあるのではなく。
遊ぶその場が遊び場だ。
それを自由とよぶならば、身近にごろごろあるじゃないか。
Donald Byrd ~ Fancy Free
ほら、そこにもっ。
ほらっ。
あ。いま踏んだっ。
☾☀闇生☆☽