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『アワーミュージック』感想。


 明け方にゴダールの『アワーミュージック』を観る。
 全三章にわかれ、それぞれ地獄篇、煉獄篇、天国篇となっているところからダンテの『神曲』になぞらえられている。
 地獄篇は過去のフィクション及びノンフィクション映像のなかに記録された戦争の数々をランダムに繰り出す。
 そこへ闘争と殺戮の歴史を考察するモノローグが続く。
 煉獄篇の舞台は現代で、映画監督ゴダールの講演旅行とその飽くなき思索、ネイティヴアメリカンの告白、そしてユダヤ系フランス女性オルガが自爆テロに至るまでがスケッチされている。
 天国篇はそのオルガの死後だ。
 兵隊にまもられた平和な海辺に辿り着いた彼女は、そこで穏やかにすごす人たちと出会う。
 男と出会い、リンゴを分け合うのは旧訳聖書のアダムとイヴを重ねてのことか。
 水平線をみつめるオルガのショットで映画は終わった。






 曰く「詩をもたない国は滅びる」という。
 あるいは滅びることで、その詩も抹殺されてきたということなのか。
 ともかく、そうモノローグされるなかでゴダールが映画のショットについて考察しているところに着目すべきであろう。
 なにゆえ過去の戦争(創作〜報道の差別なく)を編集するだけで、まるまる一章を費やしたのか。
 それはフィクションとノンフィクションの境界線を考察しているのではなく。
 つまり『(いわゆる)嘘と(いわゆる)真実』の価値の格差を指弾しているのではない。
 もとより、ある種の嘘の執拗で周到な積み重ねから、なにごとかリアルと感じられるものをあぶり出していく行為こそが、創作だ。
 映画監督は、それで食っている。
 いわんや『神曲』のダンテをや。
 黒澤明は「カットとカットのあいだに映画が潜む」と繰り返し言及していた。
 そしてそれは晩年になってやっと掴めそうになったかな、と辛うじて感じることができるレベルの極めて操縦の難しいものであると。



 詩とは、つまりそういうこった。



 物語る文章を、小説といふ。
 この『小』は大説の『大』に対するところの『小』。
 大説とされたのは歴史を記録したもので。
 小説とは娯楽であり、演義であって、創作という嘘であるからして下等と見なされた、らしい。
 そして『詩』こそは、本音の吐露であると。
 しかし、どうだろう。
 言葉である以上、本質の輪郭線の中には詩であれメールであれ踏み込めないのではないのか。
 せめぎあう言葉の群れが、その踏み込めぬ一線でもどかしくも立ち往生することで生まれた輪郭線が、かろうじて本質を匂わせるのに違いない。


 とかなんとか、えらそーに。


 とどのつまり、ものがたれ、というこった。
 しぶとく。
 この映画の中は、モノローグであふれている。
 重厚な思索で満ちている。
 思考は言葉のたまものだ。
 人は例外なく死ぬ。
 してその言葉(情報)は残る。
 いや、残すんだ。
 残せ。
 語れ。





 


 

 


 

 


 

 


 

 れ。












 ものがたることをやめたとき、国はほろぶだろう。











 今年も、おつかれ。



 ☾☀闇生☆☽