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ネットワーク。


 久方ぶりに映画『アマデウス』を観る。
 当時は天才モーツァルトを見事に演じきったトム・ハルスや、平凡な秀才サリエリを演じてアカデミー最優秀助演男優賞をかっさらったマーリー・エイブラハムの演技に釘付けとなったものであった。
 物語はモーツァルト殺害を自供するサリエリがコトの顛末を神父に告白(懺悔?)するというスタイルで進む。
 つまりほぼ全編がこの述懐をもとにした回想シーンになるという仕掛け。
 今回闇生が感心したのは、その告白に耳を傾ける神父役の人だ。
 うまいわあ。
 役者の名前も知らないけれど。
 この人、セリフは少ないのにサリエリの話にちゃんとリアクションしている。
 だから、その反射としての表情のおかげでシーンとしての『現在』が豊かになっているのね。
 聞いているその顔だけで画面が、持つ。
 確か黒澤明が証言していたが、対面したAとBふたりの会話シーンを撮る場合、ふたりを同時に画面におさめる方法以外には、話している方の顔だけを編集でつないでいくという方法があると。
 話すAの顔から、それに対して答えるBの顔という風に。
 話し手から話し手へ。
 けれど、役者同志が、ちゃんと相手の話に反応しているならば、聞き手Bの顔から聞き手Aの顔へとつないでいったほうが面白いと。
 聞き手から聞き手へ、だ。
 台本の順番どおりにかわりばんこにセリフを発音し合うだけ、というのではなくてね。『反応』しているということ。
 たしかこれを『反射』という言葉で役者に求めたのは溝口健二だったか。
 舞台なら、端役からその他大勢のひとりひとりまでが(単なる型ではなく)その反射のネットワークのなかに存在できるかどうかに、芝居のデキがかかってくる。
 芝居の空間が、そして談志のいう『ドリーム』が、そこに出現するわけ。
 観客は、それを意識しなくとも感じてしまうものなのです。


 ともあれ、
 サリエリもやはりうまいね。
 モーツァルトの曲の素晴らしさを、それを聴く表情で表している。
 おもしろいのはモーツァルトの人格とその音楽を完全に分けて捉えている点。
 嫌な奴だから、そのつくる音楽も嫌いになる。というのはではないのよ。
 つくった奴は嫌いだが、その音楽には心奪われてしまうという。
 実はそこにサリエリの素晴らしさがあるのではないでしょうか。





 あ。
 夜勤、いかねば。


 ☾☀闇生☆☽