『アシュラ』感想。

 ジョージ秋山原作『アシュラ』劇場用アニメ、DVDにて。


 時代をうかがわせるキーワードが『乱世』と『地頭』、そして『飢饉』。
 どうやら戦国時代よりは前、という設定らしい。
 芥川龍之介の書いた『羅生門』『偸盗』あたりの時代を想定して創作されたのだと思う。
 その、時代。
 飢えに喘ぎ、当てもなく彷徨いつづける女が廃墟の一隅で、父すら定かではない子を産みおとす。
 子を生かすため、女は人の死肉まで喰らいながら浮浪をつづけるが、ついに飢えに負けて我が子を火にかけようとする。
 しかしその寸出で母としての正気をとりもどし、引き換えに人として気がふれた。
 子を置き捨てて逃げ去ってしまうのだ。
 アシュラとは、この捨てられた子の名前。
 彼は自力で生きるために人を襲い、喰らい、憎悪を糧に乱世を凌いでいくのである。
 その、凶暴な野犬のような生き様は、一人の念仏僧との出会いによって激変することに。
 僧はアシュラに言葉を与えた。
 得た言葉のぶんだけ、世界が広がり。
 陰影がつき、クリアになり。
 おぼろげながらもとらえた世界のなかに自分を、そして他人というものを意識し始める。
 とらえるほどに安らぎや喜びというものまで知ったが、そのぶん哀しみも孤独も深めていく。
 乱世という苦しみの真っ只中で、人食いとして孤立している自分を、思い知るのであーる。


 むき出しの憎悪、そして哀しみという表現は、演出としても露骨だし、露悪ともいえる。
 んが、
 結果として感受性への刺激は、強烈だった。
 ヒトは、生まれただけのほったらかしでは仕合わせにはなれない。
 また不幸にもなれない。
 言葉を知り世界を広げることでどうにか人になっていく。
 それはつまり哀しみや苦しみや罪の概念を根付かせていくことにもなるのだ。
 言葉を知らなければ、彼は一匹の野犬として食人をくりかえし、その罪にも気づかぬままに生を終えたことだろう。
 知らぬが仏、という。
 けれど知って哀しむその心の動きもまた、人である証であり、せめてもの救いなのかもしれない。


 犯罪者に対して、あるいは加害者に対して、更生したか否かを世間は問いたがる。
 そんな客観的基準など、いったいどこにあるのか。
 サリバン先生が三重苦のケラーに言葉をひとつひとつ教えたように、水は水という言葉とともに実物に触れることで初めて意識される。
 優しさは、優しさに触れてはじめて意識される。
 哀しみは哀しみに触れてはじめて、意識される。
 ならば更生も、更生にふれなければ、意識されないのではないかのか。




 ☾☀闇生☆☽
 追記。
 こういう露骨な演出に琴線をやられるようなおっさんななっちまいました。
 すんません。


 ヒロインには絵的に違和感を。
 PS2時代のCGキャラみたいな演技してます。
 ひとりだけ現代っ子に見えます。
 原作のもあんな外見なんでしょーか。
 まつ毛びんびんです。
 世界から浮いてます。
 ジョージ秋山風ではないよーな。
 平成版ゲゲゲの猫娘に感じた違和感と同じです。


 同じようにアクション要素をひけらかし過ぎているようにも見受けられた。
 テーマがテーマだけに、そしてそれで十分に惹きつけているだけに、ちょっっっとだけ鼻についた。
 あとね、どーせならアシュラの扱うあの斧? 鉞?
 重心は圧倒的に刃のほうにあるわけでしょ。
 それをあの小さな体で扱うのだから、移動時は刃の方を抱えるように持たせて柄を引きずらせたほうがいい。
 で、攻撃するときには、遠心力。
 のけ反って振ることで、グリップの位置が刃から柄先のほうへスライドする。
 それしかあの体であれを扱う方法はないと思うのだけど。
 




 さらに追記。
 なんかね、己は人に非ず、ということを意識してはじめて味わう孤立の哀しみってのは『キングコング』あたりから始まるのかね。
 『フランケンシュタイン』とかもそうなのかな。
 『シザーハンズ』とか、類型もたくさんありそうだ。
 きっと主人公の孤立に、自分のなかの他人と違う部分を、つまりが孤独をかさねて共鳴するのでしょう。