大会、と銘打つからには競争でございまして。
どこの作った花火が良かったかを競うというのが、この催しの大前提なのでしょう。
して、その提供者はどこのお金持ちか。
はたまた地元に根付く企業のどこそこか。
けど、まあ、お祭りと同義語になりつつあるのでしょうか。もはや。
むろん江戸で始まった当初は、流行病を祓う意味があったらしく。
ならば死者を弔う意味もあり。
花火の儚さ、可憐さに、すぎゆく時間を美しく、そしてもの哀しく想起させる作用もあったにちがいないのです。
青春の日の、あのじんと残る胸の痛みのような。
というイメージが、いまだ青春にもいたらない思春期前の子供までが抱いていたりはしないだろーか。花火に。
なんの盛り上がりも無い青春時代を過ごした人ですら、そこにそんな理想的過去を求めたりするのだな。
青春にそえるべき重要アイテムのひとつには違いないのだ。
花火っちゅうもんは。
宮本輝かなんかの小説の影響だろうか。
ともあれ、
日暮れからあたしのアパートの間近で、盛大にぶっぱなすことになっており。
コンビニもスーパーも、あるいは普段は店のなかに閉じこもっている駅前スナックのママさんたちも、店頭に急ごしらえの出店を作って、ツマミ類の販売に精を出している16時。
唐揚げ、たこ焼き、枝豆にフランク、焼きそば、と売り声も高らかに呼ばう姿に、道路使用許可の取得の有無は、概念も無いにちがいない。
自分とこの前だからいいじゃん、と。
ふだんは四角四面、杓子定規のレッテル張りで見なされるケーサツもお役所も、実はこういうところは大目に見ているのですな。
と同時に大会中の駐車禁止、進入禁止でもって地元から混乱を遠ざけ、なんか知らんがたかだか花火で浮かれちまってはしゃぎすぎてやからす輩たちを立哨で抑止してくれている。
闇生はといえば、
花火大会の混雑を危ぶむ現場さんのはからいで、はやばやと仕事を切り上げた。
禁止、禁止に囲まれた結界のまっただなかにある我が侘び住まいに閉じこもる所存でございますと。
毎年、目の前の花火は見ない。
うるさくて動画も観られないので、騒ぎをヘッドホンでやり過ごすのであーる。
美人は、離れてみるものでございます。
それが花火への礼儀かと、思ふことにした。
いま、した。
明朝の河原の惨状には、毎度毎度げんなりさせられます。
Wカップで毎度表彰を受けるサポーターたちの、あのフェアプレイ精神は、ここにはかけらも無い。
ニッポン、
そーゆーとこだぞっ。
☾☀闇生☆☽