つかれた。
 あまりに不調がつづくので先週、久しぶりに休肝日をもうけた。
 二日間。
 そのあとも毎晩、発泡酒のロング缶を一本だけ。
 あとはノンアルコールビールにしている。
 体調は、別に変わらない。
 気持ち、身体が軽くなったような。
 まあ、こんなもんだろう。
 あたくし風情が元気になったところで、だれも得しないのであーる。
 


 タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』を観る。
 そこから米国黒人問題について、ちょっち考えさせられて。
 (いや、映画自体は非常に娯楽性が高いのだけれどね。それにしたってやはり長年にわたって米国映画史が直視を避けてきた問題を、踏み込んでもいるわけであり。むろん、あくまでタランティーノなりの挑戦ではあるのだけれど。この問題を『荒唐無稽なほどに高い娯楽性』のなかで語るというのが、かえって反感を呼んだりもするらしく……。)
 どうしたってこの問題で映画となるとスパイク・リーが脳裏に浮かんでしまうのだな。あたしなんかは。
 前にも書いたけれど彼の代表作『ドゥ・ザ・ライト・シング』のラストに掲げられたキング牧師とマルコムXの言葉が、よぎるのだ。
 ましてやこの国は『安保』騒ぎの最中ではないかと。
 無抵抗(つまりが非暴力)な黒人を、白人警官たちがよってたかって……という事件は、いまだにあとを絶たないわけで。





 観賞中、奴隷について、思った。
 奴隷商人であり、大農場主であり、奴隷同士の殺し合いを愉しむディカプリオの悪役っぷりが、映画の後半を支えていた。
 んが、それはさておく。
 売買の対象とされた黒人奴隷たちは、もとはといえばアフリカから拉致られてきたわけであり。
 これをあえて悪側の立場で考えれば、根本的に野生のマグロを釣って帰るのと変わりが無い。
 変わりがないなら、そこにはおカネが費やされていることも同じであり。
 つまり渡航費や人件費、そして奴隷の維持費がいる。
 むろんその狩りの対象をヒトにすること自体が非人道的であることは、念を押しておく。
 そこはスパイク・リーの言う通り、ホロコーストなのである。
 とふまえた上で、確認しよう。
 彼ら黒人奴隷を所有した奴らにしてみても、当時の売買の手続きは踏んでいるのである。
 つまりカネを払っている。
 奴隷が投資の対象であるということが、映画でも強調されていた。
 つまり、財産であり、所有物であるということ。
 クレイジーだが、その反面、財産なら無下に傷つけたり、病ませたり、するのもどうかとも思うのだ。
 家畜のように扱った、とよく言われる。
 んが、
 怪我をするほど、ましてや死ぬほど自分の家畜やペットに暴力をふるうなんてのは、やはり考えものではないか。 
 タランティーノは映画のなかでは触れるのを避けたというが、黒人女性たちに子供を産ませてその子を売買した、ということがあったという。
 どんより、する。
 脳が。
 胸が。
 どろどろにねばりだす。
 ホントに犬猫のブリーダー的な考え方をしていた奴がいたわけだ。


 でもね、
 それでも財産なわけでしょ?


 なにが言いたいかって?
 江戸時代にいた『無宿人』というのを念頭にしているのだ。
 村八分だかで故郷をなくし、住所も不定でごろつきになった彼ら無宿人は、ひっとらえられて佐渡の金山に送り込まれたそーで。
 幕府にしてみれば所有するに当たって金銭が介在していないので、タダで獲得した労働力といっていい。
 今も昔も、ヒトは『タダ』を前に野郎自大、ならぬ野郎肥大にのさばり散らす生き物だ。
 壊れて使えなくなるまでこき使ったという。
 変わりは、腐るほどあった。
 掃いて捨てるほどあった。
 どんどん江戸から運ばれてくるのだから、長く使おうだなんてメンテナンス意識すらも無かった。
 魚油に灯した火だけをたよりにした闇の穴の底で、ぶっ倒れるまで土を掘り続けた彼ら。
 ぶっ倒れたら、穴底へと蹴り捨てられていった彼ら。


 つかれた。
 明日も早い。
 もう、寝よう。




 ☾☀闇生☆☽