「火花」が決めた芥川賞の「価値」 早稲田大学教授・石原千秋


 芥川賞について、
 そして今回の同賞受賞作のひとつ『火花』について、石原千秋が、産経に書いている。
 読んで唸った。
 なるへそね。
 時代をうつす鏡か。
 たしか『火花』の文芸誌掲載時には、彼はコメントもしていなかったと思う。
 タイトルには触れておきながらのことなので「論ずるに値しない」といわんばかりの印象を受けた。
 そんな作品が受賞する、という時代ということなのだろう。
 彼が常からくり返している『該当者なし』があってはならない、もこれで納得できる。


 『絶歌』と文学性についてのくだりも、興味深い。
 やたら触れる人いるよね。あの本の「文学ぶった」語り口について。
 

 なので誤解を招くだろうが、気になって仕方が無いので、書いておく。
 そもそも人が更生したか否かの判断基準というのを、我々はどこに置いているのだろう。
 彼がもし、事件の感想にしろ、弁解にしろ、悔恨にしろ、あるいは自己陶酔にしろ、胸の内を一切公にはせず、感情すら固く秘匿してその後を生きていたとするなら、少なくとも「まったく更生していない」とは罵られなかったのだろうか。
 あるいはおりこうさんな建前を、リアルな破綻を織り交ぜて巧妙につづっていれば「更生した」ことになるのだろうか。
 なんせ学者に精査させて文章能力まで問われるのだ。
 書かないがいいに決まっている。
 しかし、更生する、ってなんだろか。
 法として決定された処罰をクリアすることとまったくの同義語ならば、ここまでもめてはいないはず。


 じゃあ、なに? 


 何処だかの国(米国?)では、加害者としてかかわった事件をネタに収入を得てはいけない、という法律があるのだそーな。
 たしかに今回の件では、その印税の行方について憤る声も少なくない。
 しかし印税が全額被害者に入るようにしたとしても、やはり納得いかないのではないのか。
 思うに、更生とは主張や発信をするな、ということなのかもしれない。
 もともと人は他者に更生など、求めていないのではないか、と。
 仮に彼が出家して坊さんになっていたとしても、その日々の生活が報道されるなり、盗撮されてネットにアップされるなり、あるいは自撮りで修行の日々を公開するなりしても、誰かしらの神経を逆撫でする事になるのではないのか。
 かすかな笑顔のひとつもそこに記録されていたならば、またたくまに炎上である。
 ならば、目に触れないことが、重要なのか。
 更生したかどうかの判断など、厳密にはつけようもないし受け取る側の解釈次第なのだから、いっそ日常で意識できないことになっていてくれればいいのかもしれない。
 とどのつまり社会的に抹殺したいだけではないかと。
 となれば、刑の本当のこわさは、塀を出てから始まるのかもしれない。




 むろん、この件に限れば被害者がある。
 そしてその被害者から奪った今日の日の『生』を、加害者が今後も享受しつづけていくというのが、一番の問題となっているのだろうけれど。
 だったら『更生』などと綺麗ごとを言わないことである。
 彼は、はなから求められていないのである。
 人は彼に、求めていないのである。
 


 





 

 
 
 ☾☀闇生☆☽