脱藩の罪で投獄された浪人が、裁きのすえに切腹を言い渡される。
ただし条件がついた。
感情を失った若君を笑わすことができたなら無罪放免に処すと。
一日、一ネタ。
執行までの30番勝負。
それがその藩の慣わしなのだという。
侍に笑いのセンスは微塵も無く。
策も無い。
幼い娘と牢番二人にあてがわれるネタを鵜呑みに演じるのみだ。
無罪か切腹か。
娘にすら愛想をつかされたつまらない男が、命をかけて挑む笑いのサバイバル、開幕。
以下、ネタバレ。
アイデアは、監督自身の世代を踏まえれば『太陽にほえろ』のゴリさんからであろう。
銃は携帯しても弾はあえて装填しない、という有名なエピソードを持つ熱血刑事である。
しかし、どこかの会見で監督は、こう明かしている。
主演の野見が撮影当時に持っていたケータイは、契約が切れていた。
料金が払えず、すでに通じない。
それでもなお大事に、ステータスよろしく彼は持ち続けていたそうで。
それが『さや』のみを腰にする侍のアイデアのもとになった、とのこと。
彼にとって、なけなしのプライドのようなものだったのだろう。
ところが、本編ではこの肝心の『さや』についてほとんど触れられないのである。
妻を流行病で失ったのがきっかけで刀を捨てたとかいうセリフはあった。
それを機に殺し合うことをやめたとか、
刀は人を斬るためにあらずとかなんとか、
そんな、どっかで聞いたようなそれっぽい事を言っていた気がする。
んが、
彼の無様な動きを見るに、そもそも剣客ではないだろう。
殺し合いの人生などこれっぱかしも歩んでいない。
むしろ彼は戦闘能力的には完全な弱者で、せめて護身のために刀を持てといいたいほどである。
そしてほぼ説明はその『それっぽい事』だけでやっつけられた。
いっそ、路銀に窮して売っちゃったとかさ。
けど、さやだけはナケナシのプライドが邪魔をして、ついに売れなかったとかさ。
失くしたとか。
忘れたとか。
そういういい加減であり意気地なしであってこそ、逃亡の日々が活きるのではないだろうかと、思った。
この映画の場合はまず『ダメ男あり』というスタートを、きちんと切るところから始めるべきなのである。
それにしても主義、主張、思想も無く、無断で脱藩し、2年3カ月ほど放浪しただけで、刺客にまで追われるお尋ね者とはどういうことか。
しかも切腹て。
あるいはシリアスな方向にその理由づけを求めるのならば、おそらくは舞台は幕末であろうから、倒幕だか佐幕だかの闘争で使い捨てにされる『人斬り』稼業に嫌気がさして、とか。
そのうえでの燃え尽きだとか。
そういうのでもない。
奥さんが死んで、鬱になっちっゃたというだけである。
妻の命をうばった流行病を絶滅しようと、医者を志すというのでもない。
で家族から、社会から、とんずらぶっこいたと。
しかし、それはいいとしよう。
そんな奴もいるんだ、と言われりゃ仕方も無い。
てか、現代にこそ居そうだよね。
いや、いる。
他愛も無い切っ掛けでバーンアウトしちゃって、そのまま逃げ続けている奴。
自分探しという方便の現実逃避。
実際、ニンゲンなんてのはそんなことで踏み外しちまう弱っちい生き物だ。
そんな風に連想して想像で補ってやればいい。
しかし腰のさやを、周囲の人々が黙殺しているのはどういうことかと。
そこがどうしても気になってしまうわけで。
それを市井の子供や町人にからかわれたりすることも無ければ、不思議がられもしない。
彼をねらう賞金稼ぎたちですら、それに触れない。
彼らは狂言回しとか語り部的な存在なのだから、そこにこそ役割があるだろうに。
要は、丸腰のおっさんだ。
たかだか。
それを暗殺しようと躍起になる彼らも、変だろう。
笑いのためのみにキャラクターを作った感がありはしまいか。
アイデアの足が、地についていないのではないのか。
そう。
思えばこの三人の刺客が、要らなかったなあ。
冒頭の登場からして、すべっていたし。
異名を持つキャラのベタな登場シーンのパロディをやるにしては、演出の型が板についていないと思う。
観てのとおり仕掛け人だか仕事人だか必殺シリーズだかのイメージで、
ひょっとすれば押井守の『立食師列伝』のように、決めたかったのだろうが。
ああいうのは、やるならちゃんとやってほしいものである。
パロディとは原型あってのもので、しかし監督の引きだしは映画にはなく、どうやらそれを真似たテレビからの模倣*1としてのパロディらしく。
テレビコントでやるならそれでも『持つ』だろうが、映画となると、どうだろう。
それはともかく、
説明役がほしいならば、町人でいいではないか。
すれば冒頭のあの襲撃コントの無駄で退屈な時間が省ける。
森の中を必死に逃げてくる野見勘十郎。
それを遅れて娘が追ってきて、
そしたらもうシーンは町なかでいい。
捕縛されて連行されてくる野見でいいと思う。
あんな丸腰のおっさんを御用提灯でものものしくも包囲して、無抵抗なのを捕らえてなお「御用だ御用だ」を口々に連呼しているのなんていうアホっぽさは、笑いをねらっているのか、たんなる映画としての粗なのか、分かりにくいので要らない。
ずばっとカットして「連行されてくる侍」でいい。
それを野次馬たちが口々に噂し合って、あれこれ憶測で勝手なことを言っていると。
「いったい何やったんだいあのお侍は」
「どうして“さや”しかしてないんだろう」
そこであの三人が、事情通の町人として野見勘十郎という侍を説明すればいいのである。
たしかに、若君への薬草の布石が、あの襲撃コントのはざまにはあった。
けれど、それもその後の獄中での日々に織り込めばよいだけだ。
傷だらけで捕縛されて、そこに薬草を取った娘が会いに行けばいいのである。
ちなみにこの娘は父を「それでもお侍ですか」と罵りながらも、その傷を薬草で治療してやる。
そこに持ち前の気性と武家の娘としてのプライド、そして父への愛情が辛うじてあるのだと思う。
それを踏まえれば、父の武士としての身だしなみは娘が、幼いながらも健気に面倒をみてやる方が、より親子の距離感が際立つのではないだろうか。
耳の痛い小言をあびせながらも、髪をすいて髷をゆってやるとか。
着物のほころびを縫ってやるとかね。
笑いのシーンについて。
ここでいうのは、観客にむけての笑いについてではない。
例えば板尾が見張り番とお互いのちょんまげを評し合う場面は、ある種の観客にはウケる。
が、
劇中のだれかにウケているやりとりではない。
獄卒の持つ棒が、いつも口を開けっぱなしにしている方*2のだけちょっと太いとかも、そのたぐい。
これらは観客それぞれに笑いの感受性が違うから、わかるわからない、が別れる。
だから、それを論ずるのは不毛だ。
問題は劇中世界でウケているのかどうか。
そこ。
つまり、つまらない男、野見勘十郎が日々挑むネタは笑いが目的なのだ。
それが『劇中で』ウケているのかいないのかが問題。
そこが明確になっていない個所がいくつか目立つこと。
劇中のだれひとりとして面白いとおもっていないのか。
あるいは若君だけが笑わないものなのか。
周囲にはウケているのか。
一日目は誰ひとりとしてウケてはいない。
それは明白。
そこから最終日にむけて次第に市民に支持されるようになってくる流れなのだが、そのウケが笑いなのか、どんな種類の笑いなのか、単に「頑張れ頑張れ」という同情なのか。
といって、たとえばチャップリンの『ライムライト』のように、
「劇中の観客の反応」=「映画の観客の反応」
にしてしまって無音でゆだねる、というようなギャンブルもしていなかった。
とここまで書いて思ったが、いっそ『劇中の観客』を無くしたら、どうだっただろう。
若君が塞ぎこんでいるのは、公然の秘密で。
よって市民には公開されず、最後まで非公開でされた30番勝負だったとしたなら。
その方が、映画の観客は自分の感覚をゆだねられたのではないか。
密室という状況と劇中でのすべりが、かえって『緊張と緩和』の緊張の方の役割をしたかもしれない。
非公開だから、のちに歴史に埋もれても当然で。
たとえば『すべらない話』で、もっともすべっているのが観覧ゲストたちの例の笑いのカットである。
大人の事情は別として、演出としては誘い笑いを兼ねているのだろうが、それはつまり視聴者を小バカにしているわけで。
視聴者が何かのついでにふと目にしても、そのゲストの笑顔で笑えるようにしている。そんなレベル。
とりあえず醤油かけといたらええねん、の安全パイ。
芸人たちが互いの芸にウケるリアクションはむろん芸のうちだが、観覧ゲストのそれは芸と呼べるレベルだろうか。
ゲスな喩えをすれば、
ストリップショーを中継していて、そのあいまあいまに観客の表情がインサートされるようなものである。
まあ、しかし、結論をいえばやはり映画で笑いを作るというのは、難しい。それに尽きるのだ。
黒澤明も、しみじみ言っていた。
感動させるよりよっぽど難しいと。
黒澤の場合、師匠がエノケン映画でならした人だっただけに、実感があるのだろう。
テレビでウケていたことを同じようにやっても、まずウケないし。
だから笑いを狙ったシーンでは「笑えなかった」が、ラストでは「感動した」ということになるのだ。
野見。
野見勘十郎に主役の野見隆明の地のキャラクターを重ねる人が、ある種の感動をしているのだと思う。
いわずもがな、「素人のおっさんが」笑わせるのではなく、笑われる。つまりが「素人のおっさんを」笑う番組『働くおっさん』シリーズを観ていた人たちである。
思えば危険な番組だった。
企画した松本ですら、彼ら素人たちのおもろしさを危ぶむ発言を、のちにラジオで語っていた。
それはそれは禁じられた笑いで。
お題をだされ、それに真面目に取り組む素人のおっさんの姿を別室から観て笑う。という毒。
その笑いは嘲笑に近いがゆえに、視聴者は自覚して同時に淡い淡い哀愁も味わったはず。
笑っているのに、どこかせつない。
勘十郎もまた、そんなもんだ。
笑わせてはいない。
実際、胸の内に笑わそうという気迫すらない。
ただ懸命にすることで、笑われてる。
それが『お慈悲』で刑の執行を猶予されたと知るや、失いかけていたプライドを再生させるのである。
ルールを書き変えて、お慈悲で生かされるなんて、どうよ。
その後の『他人におまけされた人生』て、どうよ。
とここで飛躍するが、ここにきて闇生はふたつの物語を頭に浮かべていた。
ひとつは『ソクラテスの最期』。
奇しくも野見と同様に死刑執行まで30日の猶予を与えられたソクラテス。
この異例の判決は、彼の死を惜しむがゆえで。
その猶予期間に彼はおそらくは弁明なり、嘆願なりするだろうと踏んでのことだった。
告発した側も、裁く側も、市民も、誰もソクラテスの「死」までは求めていないのである。
ところが彼はその猶予期間に何ら手を打たずに『死』を受け入れたのだ。
差し伸べられた救済の手をすべて拒んで、厳密にいえば『刑』を受け入れたという言い方のほうがいい。
理由はいろいろと未だに推測されているが、少なくとも彼の順法精神が主な理由のひとつだろうと思うからだ。
情をもって特赦とされればそれが前例となって、法治国家の根幹をゆるがすと。
ひいてはそこに『公・私』を置く『個人』が、ゆらぐ。
そこいくと赤穂浪士も同じだ。
情けで『自分だけルールを変えてもらって』まで生かされるなんて、生きてないも同じではないのか。
自ら死を選択したその瞬間、彼ははじめて人生を自分のものにしたのである。
野見の場合、逃げ続けてきた半生への、反抗だ。
言われるがまま、指図されるがままに放棄してきた主体性の、奪還。
逃避としての死ではなく、生きるための死。
そして連想したもうひとつの物語が『アラビアンナイト』。
命をかけて毎夜暴君へと語りつづける千夜一夜物語である。
というわけで最後に。
あたしのばやい、不覚にも野見の決断に泣きました。
音楽が大味で、説明的でトウ・マッチで、気に障っちゃったのだが。
川原の坊さんのラストも、ああいう唐突さは許容範囲っす。
ベタな演出を心がけているのか、けどそれはどれもかつてのテレビからの影響なのか、なんちゃって感は拭えないこの作品。
相も変わらず『映画』は感じられない。
が、あの川原のラストは彼なりのチャレンジに思えた。
それとやはり『働くおっさん』シリーズの野見さんあってのこの映画である。
ちなみに監督松本人志についての考えは、かつてこのブログに書いた。
参考までに。
↓
http://d.hatena.ne.jp/Yamio/20131025
☾☀闇生☆☽