マーチン・スコセッシ監督作『ヒューゴの不思議な発明』DVDにて
ドタバタが下手だなあ、スコセッシは。
けど映画を心底愛しているんだなあ。
それが最初の感想である。
予告編とタイトルに煽られて、こっちゃドキドキハラハラしたくてわくわくしているっていうのに、テンポがよろしくないのね。
ここでは主人公のドジっぷりがドタバタの緊迫感になるという仕掛けなのだが、その緊張と解決の緩急、ようするにテンポがまずい。
だからくどく感じてしまう。
それによって主人公の暗さとトロさが強調されてこっちは苛立たされてしまうのだ。
しかもテンポの潤滑剤として散りばめたユーモア(もしくはギャグ)が、おさむいときているから、つらいんだ。
特に主人公の暗さが、気になってしまった。
いや、気に障ってしまった。
父との死別で、叔父さんに預けられた少年ヒューゴが主人公。
叔父さんは駅の大時計の職人で、昼間っから飲んだくれている意地悪おやじ。
おまけにヒューゴには冷たいという定番の設定である。
しかし定番にはそれが定番になり得た訳があるはず。
このあたり、かつて日本のアニメや漫画に出てくる少年たちに孤児が多かったのと、事情を同じくするのだろうか。
そこに原作の発表された時代が、色濃く刻まれていると。
有体にいってしまえば戦争孤児たちに向けた物語であると。
叔父さんが食事の面倒を見てくれないせいで、ヒューゴは泥棒で喰いつないでいる。
そして、仕事のお手伝いがてらに、父の遺した自動筆記のからくり人形を、いつか完全に修理することを夢みている。
人形の筆記に父からのメッセージがあると信じているのであーる。
たしかに不幸な生い立ちなのだ。
んが、
せっかくチャップリンやキートンなどのスラップスティック・コメディへオマージュを捧げているのである。
主人公の少年にあの暗さは、無いだろう。
少なくともドタバタの主人公は、不幸を不幸と自覚しないたくましさが必要なことくらい、気付かなくては。
キートンの無表情が、そしてチャップリンの「放浪の紳士」が、そのお手本だろうに。
だからヒューゴは貧乏や親無しを不幸とは自覚しておらず、いちいちくよくよしたりしない人物に設定した方が、ドタバタシーンは無論のこと映画として活きたはずなのだ。
作中何度も登場する公安官との追いかけっこシーン。
黎明期の映画へのオマージュが『静』の部分なら、この追いかけっこは『動』の役割のはず。
なのに少年に悲壮感があるから、『動』が躍動しないのね。
そこは戦争孤児ならではのたくましさで、追ってくる公安官相手に「あっかんべー」や「おしりぺんぺん」をしてみせるくらいの図太さがあった方が、観客は元気づけられるだろうに。
おびえて逃げ回るだけでなく、やり返すくらいの元気があっていい。
それあってこそ、感動的なまでの映画へのオマージュがコントラストとして活きるだろう。
映画への愛情と先人への敬意はわかった。
感動もした。
しかしそれでは半分なのだ。
最後に、からくり人形(ロボット)。
あんなに押したわりには物語への作用が弱い。
原作では映画に無かったオチでそのあたりを解決しているらしいのだが……。
タイトルにある「不思議な発明」の意味が、ついにわからなかった。
☾☀闇生☆☽