『ファンタスティックMr.Fox』DVDにて。
 原作はロアルド・ダール
 監督はウェス・アンダーソン


 動物たちが『野生』の名にかけて、三人の農・牧場主を相手に繰り広げる食料争奪戦争。
 リーダーを張るオス狐とその一家の物語をメインに、ストップ・モーション・アニメで描く。



 ここでは三人の農・牧場主がことさら陰気な悪役として描かれるが、これといって悪い連中でもないところがポイントかと。
 彼らがやろうとしたのは財産を守るための害獣駆除に過ぎないのね。
 (ただしそのために山をひとつ潰すのは、現代の感覚ではやりすぎで、『悪』だろうけれど。)
 この話のなかでの人間たちは、たかだかそれぞれの自衛に精を出しているのに過ぎず。
 それを大きく飛び出してまで退治しようというのでもなかった。
 いわばセキュリティ・ウォー。
 防衛戦争である。
 狐たちが人間から略奪さえしなければ、戦争はおこらなかったのだ。
 ウルトラマンは怪獣の故郷にまでのそのそ出しゃばって退治してまわらないのである。
 ただ、野生の動物には食料の『所有』という概念もなければ、当然その『略奪』という概念も無いわけで。
 ましてや、コトの発端が人間による環境破壊にあるわけでもなく。
 本作は、いわゆるジブリ的なものではございませんと。
 致し方の無い不幸な関係。
 そのあたり、農耕民族と放牧民族との間に繰り広げられてきた利害関係と、その『わかり合え無さ』の象徴としての万里の長城をふと、思った。
 土地をそれぞれの所有物と捉える人たちと、誰のものでもないと捉える人たち。
 一方の平和が他方の平和を脅かす関係。


 あれ?
 とするとウルトラマンの怪獣たちにも、侵略の意識はなかったのやもれしず。
 ……。


 語り口は、健全無垢なディズニーへの反発から生まれた近年ありがちなブラック・ユーモアもののひとつ。
 ティム・バートンシンプソンズによって切り開かれてきたお下品なノリも引き継いでいて、こういう大人向けを意識したスタイルはすっかり市民権を得たのだと解釈。
 しかしフランス産の『ベルヴィル・ランデブー』などのように、それらのブラック・ユーモアが風刺といえるほどのセンスにまで昇華されているような印象はえられなかったなあ。
 もはやアニメに『ブラックですよー』『大人向けですよー』『不良ですよー』という売り口上をつけるのは、日本人であるあたしにとっては正直、さぶい。
 欧米では、いまだに刺激なんですな。
 アニメなのに社会派、とか大人向けとかいうやつが。


 ついでながら余談して。
 欧米のエンタメの中の『毒』を面白がるには『中指を立てる』ことや『ファック』という言葉が本来忌避される事ごとであると『頭ではなく生理的』レベルにまで浸透されてなければならず。
 そのうえでそれらをあえて表現として使う場合、かえって面白がることが『不良的かっこよさ』であるとまで『意識』できていなければならない。
 (これまた緊張と緩和。制約と自由の関係性ね。)
 簡単に言えば、おベンキョーとか感化のタマモノだ。
 頭でわかってはいても、生理的レベルでなんて、無理ですわな。
 すまん。
 あたしゃニッポンジンだもんで。
 わかったふりはイメクラ、もしくは『ごっこ』になっちゃうのよ。


 やるなら30分程度のテレビシリーズが、この話には向いていると思う。
 それと人気俳優たちを配した豪華声優陣、という振れ込み。
 イベントの売り文句、客寄せとして当時はそれで盛り上がったのだろう。と思ったが。
 考えてみればジョージ・クルーニーをはじめ皆さんあくまで演技人たちなのであーる。
 そこはさすがに『俳優』だった。
 声優も演技する者であることには変わりが無いし、山田康夫が言っていたらしいがそもそも『声優』ってなんだと。
 その線引きっておかしかねえかと。
 どちらも役者であることに変わりは無いだろうと。
 役者の仕事はパントマイムでだけではない。
 声も、演技のいちパーツだ。
 声も身体も駆使するのが演技だ。
 ふたつは『音と楽器』のような関係性で、切っても切り離せない。
 ならば役者が声を担当するのは至極まっとうなはずで、逆に声優と呼ばれる人たちが芝居でも通用するのが本来は望ましい。
 山田さんは『声優』ではなく『俳優』であることに拘っておられたという。
 そもそも黎明期の日本アニメの声って、すべて俳優たちでしたよね。
 ラジオドラマもそうだったんじゃないのかな。
 それが分業化しちゃったんだ。




 そこいくとあれだ。『人気タレント起用』というのは、不思議な話だよなああ。
 タレントって、何のプロなんだろう。





 ☾☀闇生☆☽