デイミアン・チャゼル監督・脚本作『セッション』歌舞伎町 東宝シネマズにて


 原題は『WHIPLUSH』。
 鞭打ち、だそうな。


 片や偉大なジャズドラマーを志す孤独な青年。
 片やスパルタ式こそが天才発掘の唯一の教育法だと信じる鬼コーチ。
 ジャズにかける二人のボッチが闘わす、狂気のセッションである。
 いや、格闘だったね。





 JAZZ




 というと、とかくインプロビゼーションばかりに重きをおいて『自由』の代名詞と解釈しがちである。
 それはあながち間違いじゃあない。
 んが、
 それがすべてでもないことは確かで。
 制約が一切関与しない自由な状態は、たんなる混沌に過ぎないわけで。
 それではあまりに不自由だ。
 ということで自由のミソはその輪郭。つまり制約の加減にも握られていることがわかるのであーる。
 たとえ自由の代名詞ジャズであってもね。
 んが、
 その加減と好みがムズカシーのよねえ。


 だからヒトは、社会は、国家はもめるのよねえ。


 コムズカシー話になるまえに音楽に話をもどしておこうっと。
 ジャズ=自由。
 といったって本当にやりたい放題なら、チューニングだって要らないはずだ。
 テンポだって合わせなくていい。
 なんなら楽器だっていらない。
 自由なんだから。
 うんこしたっていい。
 てかそれじゃあ単なる『勝手』に過ぎないだろうと。
 すくなくともその自由は他者と共有できる自由ではなさそうで。
 共有したいのは主に自由自在感ではないだろうか。
 言い換えて『解放感』でもいい。
 鑑賞するほうにとっても、音を通して感じたいのはそこである。
 『開放』は『制約』あってのものだ。
 『制約』もまた『解放』あってのもの。
 ならば無意識にしろある種・ある程度の『制約』も、人は感じたがっているのであーる。
 といった具合に『自由と制約』が『光と影』のようにワンセットの関係であるならば、その一方だけに注目していても埒が明かないのは当然で。
 制約を見つめることでしか見えてこない自由の側面が、あるに違いない。
 いや、ある。
 教師フレッチャーは、厳密な『制約』と『くやしさ』を経ることに『自由』へのカンフル剤があると信じている。


 観賞後に立川談志の有名な言葉を思い出した。


「型ができてない者が芝居をすると『型無し』になる。
 メチャクチャだ。
 型のしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば、それは『型破り』になる。
 結論を言えば、その型を作るには稽古しかないんだ」


 制約を制約と、
 稽古を稽古と意識しなくなるほどにそれらを血肉にしたものこそが、解放感を得られるのではないだろうか。
 よく言われる「基本や理論なんてもんは忘れろ」というのは、とどのつまりそういうこって。
 それはスポーツや格闘技でもそうだろうし。
 卑近なところで言えば自転車をこげるようになったときの、あの感覚から連想できると思う。
 乗れるようになったときには、すでに理屈は跡形もなく消化しているものだ。




 話をもどす。
 ビッグバンドジャズの醍醐味というのは、乱暴な言いかたをすれば、談志のいうところの『型』と『型破り』の行き来ではないのかと思う。
 譜面を型とすれば、各人に与えられたソロパートがオリジナリティの場でござると。
 ううむ。やっぱ乱暴な表現だったかな。
 まあいい。
 そう。
 たしかにフレッチャー先生の教育法は度が過ぎていた。
 病的だ。
 ただし彼は『くやしさ』と『型』を徹底的にたたきこむことだけが、それを破るに値する天才を目覚めさせると純粋に信じていたのに過ぎない。
 いたってシンプル。
 この教育法には否定的な見方をする人が多いだろう。
 映画としてはいいけど、実在したら社会問題だよねと。
 なんか○○ヨットスクールみたいだよねと。
 けれど、主人公アンドリューは監禁されていたわけではないのだな。
 逃げようと思えば、いつだって逃げられた。
 そこにまず、選択の自由があった。
 とりわけ、最後のステージは逃げることだってできたのだ。
 家族も受け入れ体制である。
 なのに、である。
 かつての彼は「殴りかかる」という形でしか制約に対抗できなかったのに、ラストではその制約を自分のものにしたうえで、突きぬけようと踏み出すのだな。
 自分の意志で。






 最後に、ぜひ劇場で観てください。
 この手の、音楽がメインとなる映画は大音量で体験しないとあきまへん。
 ましてやドラム演奏が、セリフ以上に雄弁に語りかけてくる映画なのですから。
 太鼓の音圧を体感してくださいませ。
 文字通り音に鞭打たれてくださいませ。






 追伸。
 実際は小さな音の演奏こそ、難易度が高いと思う。
 けれどそれにはあえて触れず、超アップテンポと激しさの追求のみにすることで、映画としてわかりやすくしたのだと思う。
 そして音楽的問題を徹底して『テンポ』に絞った。
 言い換えれば『型』という密室に観客を一時間半、閉じ込めやがったのだ。
 それがラストの『型破り』の痛快に結実する仕掛けだと。
 ほら、ここにもまた『緊張と緩和』なのであーる。



 で主人公アンドリューのあこがれ。
 バディ・リッチのキャラバン♪








 この時代のジャズミュージシャンて、アーティストというよりは『芸人』の気質をもっているよね。
 誤解を恐れずにのたまえば『大道芸』のスピリットを脈々と受け継いでいる。





 自由自在に生きる、には訓練も技術も才能も試練も経験も、もろもろ必要なんだよねえ。



 ☾☀闇生☆☽