ニンゲンと言うものは、なにかと『価値観を共有』したがる生き物でして。
ひと昔前はテレビがその恰好のネタになっておりました。
お茶の間の夕食どきに家族と観ていても、
あるいは恋人のアパートで、肩にもたれ合ってほっぺたなんか突っつきながら眺めていても、やれこのアイドルは整形しているだの、この俳優は誰それと破局したの、付き合っているだの、歌が下手だの、脚が太いだの、服がダサいだのと。
なにかと価値観の共通点を確認したがるものなんですな。
でそのもっとも安易で簡単な確認の仕方が『嫌う』という行為で。
有体に云えば悪口というやつ。
ね。
嫌うことは屁をこくがごとし。
簡単です。
ほっときゃ勝手に出ちまうんですから。
あれを人前で出さないようにすることのほうが、ひと苦労なんですから。
出ちゃうんです。はい。
嫌っちゃうんです。ニンゲンてものは。
ドライブなんかしててもそうです。
助手席に乗っていると、やたら周囲の運転マナーにケチをつけては悪態をつくドライバーがいます。
「んだこいつ、ちんたらちんたら、とろくせえなあ」
「じじチャリあぶねーよ。どけ。おらっ」
なーんて、聞くにたえない。
あれも同意をもとめてるはずなんです。隣に。
とろくせえな、という嫌う価値観を共有したいんです。
けど、隣で聞いているといやなもんなんですよ。
こっちゃある意味、命あずけてるんですから。
んなことより安全に送りとどけて欲しいだけなんですから。
といって、それを指摘してドライバーの神経を逆なでしたくはない。
かえって危険な運転をされたんじゃあかなわない。
だもんで大概ははげしく同意した態でご機嫌をとっておくか、にが笑いでしょう。
あたしゃだいたいこのにが笑い派でございます。
静かにハニワのように笑いつつ、無事に目的地に到着するのを願っているのでございます。
するとドライバーは価値観を共有できたとしてご満悦で運転してくださる。
まあ昨今では、昔とちがって人と人の距離が開きました。
ええ。
家族であれ、
会社の同僚であれ。
ひとつのテレビのチャンネル選びをめぐって兄弟や親子でケンカをすることもなければ、仕事帰りに赤ちょうちんでのんだくれて部下を相手に上司や女房の悪口でクダをまくなんていう種族も、絶滅しつつあります。
だもんでこの手の屁のこきあい、嗅ぎあいは、生の関係としてではなく、ネットなどで展開するご時勢となってひさしい。
ようするに同じ対象を好くことで関係をたもつことが間々あるように。
反面、嫌うことで繋がろうとする習性が、我々にはどーしよーもなくあると。
しかも程度の低いことで共感すると、厄介なことに、ちょいワル的な仲間意識を抱きがち。
そっちの方が簡単で根が深いぶん、カタルシスもひとしおといった塩梅なんですな。
そこで思うに、
イジメというやつは、共通の対象を忌み嫌うことで、多数と繋がろうとしているのではないんですかね。
繋がりたいからイジメる。
さしずめ第三者への陰口は、差し出された握手といったところでしょうか。
価値観なんてものは、人それぞれです。
つき詰めれば、ちがいばかりに気を取られます。
だからほどほどにしとくのがいいんです。
無論、『人それぞれ』が或る度を越せば、相対化地獄の混沌におちいってしまうにちがいありません。
これはもっともっと厄介だ。
まあ、だからほどほどにまとまっているのがいいんでしょう。
少なくとも価値に基準はあるといった程度には。
そして、だからといって価値観の共有を求めないようにしよう、とはしないことです。くれぐれも。
それもまたひとつの価値観だろう、ということなのですが。
そもそもニンゲンは言葉をつかう動物ですな。
いや、俺はつかわないぞ。とそれを否定するにも言葉をつかってしまう。
つかわずにはおられない。
他者との共有あってこそ言葉は言葉なのであるからして、そこからは決して逃れられないのですね。
価値観の共有なんてものは、往々にして何かしらを疎外することで獲得しているものなのです。
んなものは『良い加減』にしておくのがいい。
いい加減ではございません。
加減をbetterに。
良い・加減なのでございます。
☾☀闇生☆☽