トーマス・アルフレッドソン監督作『ぼくのエリ』DVDにて


 美しい。
 雪に白く閉ざされたスウェーデンの片田舎と、そこに咲き散る鮮血のコントラストが。
 子供と大人の、そして性の、あやうい境界線上を彷徨う少年という生き物が、美しい。
 そーゆー映画だ。







 以下、ネタバレ。








 原作はスウェーデンの作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの『モールス』。
 あたしゃこの原作を読んでいない。
 そのうえで感想を書こうとしていたのだが、うっかり余計な情報を入れてしまった。
 映画は原作の『映像化』としてではなく、あくまで『映画化』されたものとして愉しむべきであるのに。
 柄にもなく他人の感想などをチラ見してしまったのであーる。
 まあいやらしい。


 まずは乱暴に要約してしまおう。
 200年を生き延びるヴァンパイアの少女エリと、いじめられっ子の少年オスカーとの禁じられた恋物語であると。
 しかし、情報によればまずこのタイトルにある『少女』というのが誤りなのだという。


 へえ。


 別に原作と違ったっていいじゃん、といつもなら思うさ。
 が、今回ばかりはそれが重要だったりするのね。
 実際、映画の中でエリはこうくり返しているのだから。


「女の子じゃないもん」と。


 どーゆーこと?
 と、闇生は謎を謎のままに捨て置かれる心地悪さを愉しんでいた次第で。
 ヴァンパイアには性別が無いということなのかな、とか。
 200歳は『少女』ではないという意味なのかな、などと。
 つまり、あたし超ベテランおばあちゃんよ。坊や、それでも愛せるの? てな具合にね。
 ところがだ、原作のエリは200年前に吸血鬼の領主に去勢された少年として登場するというではないか。
 この情報で映画の意図するニュアンスががらりと変わってしまったのである。
 なるへそ。このタイトルはあかんわ。
 邦題の『少女』は、単に少年と少女の禁じられた恋である、とした方が分かりやすいと考えてのことなのか。
 あるいは倫理的な視点から物言いがつくのを意識してのことなのか。
 事情は知らんが、これはあかんて。
 仮に原作と切り離して考えても、本編中のセリフに「女の子じゃないもん」があるのだから。


 本編を十二分に味わうには、まずそういった性の問題が意識されなくてはならないのですと。
 なんせ本編では具体的に説明されないものの、確かに反映されている設定なのだから。


 物語はそんな「女の子じゃない」ヴァンパイア・エリと、いじめられっ子オスカーとの出会いから始まる。
 で、まずヴァンパイアだ。
 これ、知ってるようで知らない人が多いのではないだろうか。
 国産のモンスターではないからね。
 その特徴は断片的に、なんとなく気がついたら知っていたといった具合であって、詳しくつっこまれるとモニャモニャと。
 そんなところでしょう。あなたも。
 斯く云うあたしがそうで。
 人の血を主な栄養源にしているとか。
 咬まれたうえで生き残った人は、感染してヴァンパイアになってしまうとか。
 ニンニクに弱いとか。
 十字架を極端に恐れるとか。
 日光にさらされると死んでしまうとか。
 総じて語尾は「ざます」で通すとか。
 あとは心臓を銀の杭だか銃弾で貫かれると死ぬんだっけ?
 いや、そもそもドラキュラとヴァンパイアの違いもあまり意識したことも無く。
 前者が固有名詞で、後者が吸血鬼を指すというのもこの度知った次第なのであーる。


 ともかく、エリがオスカーを餌食としなかったのは、いじめられっ子という彼の孤立に、共感のしどこがあったのではないだろうか。
 領主に生贄として差し出され、おそらくは下界と隔絶された場所に幽閉され、被虐の限りを強いられた身としての共感である。


 あたいなんかさ。もっとひでえ目にあってんだぞ。
 なんだいイジメくらい。
 ちょんぎられちゃってんだ、こっちは。
 闘えっつの。
 抗えっつの。
 ったく、しょーがねーなあ。守ったるわい。


 どこかそのあたり、孤児院の少年とアクションヒーローによくある関係性にも近いような。
 して、それを取っ掛かりとしてふかまっていく情は、はたして恋なのだろうか。
 むろん、そのあたりもまた原作にあたるべきなのだろうけれど。
 でその原作にあたるといえば、物語の前半に登場するエリの同居人がある。
 そう。
 社交性がまったく感じられず、どこか鬱々としたコンプレックスを抱え込んでいる中年。
 人として閉じていて。
 有体に云って、根暗のどんくさいおっさんである。
 彼は血に飢えつづけるエリのために日夜奔走し、人を殺め、血を採取しているのだ。
 このおっさんがまた謎なのだな。
 想像する愉しみどころなのだ。
 映画だけから読みとれば、エリに追従する下僕のようでもあって。
 しかしエリが独断で人を襲ったとき、それに激怒したところを見ると父親的な存在ともいえる。
 要するに下僕となり、かつ保護者となって、献身しているのだ。
 そして、最後にはその血の採取の不手際で捕まりそうになると自ら薬品で顔を焼き、事件への捜査がエリに伸びることを防ごうとする。
 なんといじらしい。
 このおっさんの哀しさは、そうまでして献身してきたというのに、どうやらエリは彼に対してなんら感ずることがないだろうということ。
 彼の最期。あれは哀しいぞ。
 哀しすぎるぞ。
 命がけの献身とはまさにあれではないか。
 そしてこのおっさんの役目を、やがてはオスカーが引き継ぐのだろう。という解釈が、この映画が観客の想像にゆだねた幾つもの答えのなかのひとつ。
 エリは永遠に歳をとらず。オスカーは純愛を貫いたままおっさんとなり……とな。
 ところが、原作にあたると、この哀しきおっさんはペドフィリア小児性愛)を患っているという。
 それも命を張って献身するという、犠牲愛に富んだペド野郎なのだ。
 となるとだ、オスカーもまた、このままエリへの恋心を保ったまま成人し、中年となれば、やはりとんだペド野郎なのであーる。
 不滅の恋は、ペドと化す。
 200年。
 代々のパートナーたちは、いったいどんな人物たちだったのだろう。
 人種も性別もいろいろあっただろう。
 などと、映画版の『銀河鉄道999』をはじめて観た時のような感慨にふけったお方も少なくないのではないでしょうか。


 ヴァンパイア。
 日本風に言えば吸血鬼。
 つまりが鬼である。
 鬼は人を食う。
 ゆえに共生することのできない、したくない存在の象徴として、扱われる。
 野田秀樹の傑作『赤鬼』では、鬼とは、他者を差別する恐怖心が生んだ誤解・幻影に過ぎず、元はどちらもおなじ『人』であるとした。
 鬼は、心に棲んでいる。
 おそらくは他者をつくることと、自己を確立することとは、同時に進むからなのだ。
 問題は他者との接点のあり方。寛容なのか不寛容なのか。
 自己の更新なのか、保身なのか。
 そこに生じるネガティヴに、鬼は潜むのだろう。


 オスカーは親との間に壁を感じ始める年頃。
 しかも友だちが居らず、日々いじめられている。
 そんな孤独の中にあるオスカーにとってエリという存在は、唯一自己を認めてくれる他者の誕生だ。
 自分を自分たらしめてくれる存在だ。
 エリにとってオスカーは、きっと初めての『守らせてくれる』存在。
 それもまた、群れ(社会)から孤立している自分を彼に投影してのことであろう。
 守ることで、自己を確立しようって訳。


 しかしながらヴァンパイア。
 作中ではこれ、ほんとに血ぃ吸うからね。
 吸われて死ねなければ自分もなっちゃうからね。
 日光あびて自然発火しちゃうからね。
 なんかしらんけれど、ネコというネコを敵に回しちゃうからね。
 『赤鬼』は人の不寛容への絶望を謳うことで共存への希望を願って見せた。
 けれど『ぼくのエリ』は違う。
 先入観でも思い込みでもない本来共存できない関係との付き合い方を考えさせる。
 人間にしてみればヴァンパイアなんぞ、いないに越したことはない。
 されどヴァンパイアにしてみれば、人間を食い尽しちゃったんではお終いなわけで。
 たとえばウイルスとか、寄生虫とか、そんな関係性に近い。
 最大の相違点であり問題点は元人間という、そこだ。




 愛した人がヴァンパイアだったら。
 ううううむ。
 鬼か、人か。
 あなたなら、どうする?



 追記。
 『吸血鬼は獲物の方から招き入れられないと、その家に入れない。』
 ほおら、ね。
 知らないものでしょ?
 この設定が原題の所以なのだそうな。
 で、エリもまた、オスカーに招き入れてもらうことに異様な執着を示したよね。


 

 ☾☀闇生☆☽