ミーは、おフランス帰りざます。


 風刺?
 表現の自由
 はて、その自由とは誰にとっての自由だろう。
 原発事故がらみで手足が三本ずつになった力士たちが相撲をとっている、日本を風刺(?)した漫画はお咎めなしで。
 そして異郷の宗教は容赦なくこきおろすと。
 つまり異なる文化や他者を嘲笑し貶めるのは良しとするのを『自由』と言っているのだろうか。
 まあ、それもいいだろう。
 んが、もともと「王様は裸だ」と叫ぶのが、自由の名の元に展開すべき風刺、または表現活動ではないのか。
「余所の国の人たちは裸だ」
「おまえの母さんはデベソだ」
 と他者を罵る自由に、どれほどの価値があるのだろう?
 

 最大の風刺すべき「王様」は、いまや我を忘れて熱狂する「大衆」の方ではないのか。
 たとえ『大衆』紙といえどもそんな「王様(=大衆)」のご機嫌取りに堕しては、自由の名が廃るというもの。
 ここにきて、てめえを支持する大衆の熱狂さえも風刺してみせるなら、大したものだと思ふよ。
 うん。見上げたもんだ。


 王様は裸だ!


 思い出してほしい。
 あの言葉は王様にではなく、それを担ぎあげている大衆に向けられていることを。
 つまり王様を裸のままにしてきた暗愚なる大衆への「目を覚ませ」なのであーる。
 それを国民それぞれが自覚してこそ、やっとこさ民主主義は機能するんじゃないだろーか。


 自由?
 平等?
 博愛(人権)?


 どれもフランス産で始まった。
 けれど誰にとってのそれなのか。
 どういう状況下でのことなのか、といった肝心なところを欠いたままに世界中に広まった。
 都合よく解釈できるぶん、都合よく広まるのだ。
 日常でも誰かの自由が、ほかの誰かの不自由に依拠していることは珍しくないよね。
 そう踏まえれば、そもそもは他でもない産地にとっての自由・平等・博愛に過ぎないのであーる。


 さてそれでもみんなほどほどに仲よくしようじゃないか、となると、自由・平等・博愛それぞれにバランス感覚が求められてくる。
 それぞれが極端に少なければ非情で酷薄な世界だろうし。
 反対に無制限に垂れ流されるなら、混沌と無秩序に堕落する。
 なので加減が要るんだな。
 節度というか。
 その目安は、集団的熱狂や暴走への歯止めにならなければならないのだから、たかだかちっぽけな私一人一人の刹那的感情のなかにはないだろうと予想される。


 あいつら魚、生で喰うんだぜ。おええええ。


 的な感覚では、機能しないに違いない。
 ともすれば災害か何かを引き金に「気持ちわりいからとっちめろっ」てことになってしまう。
 









 さて、
 王様はだれだ?
 風刺すべきは、何だ?
 言葉は、情報は、未来にしか届かない。
 言い換えれば過去からしか届かない。
 ならば王様は裸だ、は過去からの声にちがいないのであーる。
 






 ☾☀闇生☆☽