アントワン・フークア監督作『クロッシング』DVDにて



 三者三様。本来関係の薄い三人の刑事が、人生の岐路で交錯した。
 舞台はNY。
 最多人口過密地区であり犯罪多発地帯でもあるブルックリンでのことである。







 エディリチャード・ギア)。
 定年退職を一週間後にひかえるベテラン警察官。
 現在までこれといった経歴ものこさずに公職をつとめあげてきた、いたって平凡な男。
 その拳銃に銃弾は装填せず、
 自身の所属分署の管轄をかたくなにまもり、
 よけいな争いごとには近づかず、
 ともすれば犯罪にも目をつぶってきた保身の半生。
 離婚歴があり、
 気やすめは馴染みの黒人娼婦を抱くことのみ。
 そして人知れず自殺願望を抱いている。
 見て見ぬふりで正義に背を向けてきた生きかたに、彼は今になって深いうしろめたさを感じていた。
 迷うのは「正義か、保身か」。




 サルイーサン・ホーク)。
 麻薬捜査官。
 妻と三人の子供たちとともに電車の騒音に苛まれる高架下の安アパートに住んでいる。
 ハウスダストに苦しむ妻が双子の出産をひかえており、問題の解決のために広い家への転居を考えるが、その頭金の工面に苦悩する日々。
 元来、信仰心があつく、教会にも通うが、日々の麻薬捜査で目にする大金に理性を揺さぶられていた。
 長年の信仰は少しも報われず、
 いやむしろかえって深まっていく貧困に、いつしかカネがすべてを解決してくれると信じるようになっていて……。
 やがて神への信心はねじれ、愛憎となり、いまや狂気を帯びるほどにまで……。
「神か、カネか」。




 タンゴドン・チードル)。
 町を牛耳る黒人ギャング組織に、幹部として潜入している黒人捜査官。
 身分を隠した長年の潜入捜査のため、愛する妻とはすっかり疎遠になっていた。
 任務の完遂と組織の一網打尽とのひきかえに、昇進と妻のもとへの帰還が約束されているが、いつも決行は先のばしにされ続けている。
 早急に任務を完了して自分の人生を取りもどしたいと焦燥するのだが、自分に絶対の信頼をおく組織のボス(ウェズリー・スナイプス)に情がうつってしまっていた。
「人情か、自分の人生か」。





 以下、ネタバレ。











 舞台の根底としてまず人種問題がある。
 根深い差別意識がもととなって低所得者が、そしてそれに比例するように犯罪件数が多い黒人過密地域の白人警察官、という関係性。
 しかしこの映画での差別問題はテーマの中心にはされていない。
 いや、わざわざ説明するまでもない一般常識なのであろうか。
 あくまで土壌としてふまえておくべきかと思う。(加えて言えばキリスト教も。)
 それでこそ、悩める白人警官エディが好んで黒人の女を抱くことに、また彼に預けられる新米警官たちの肌の色のちがいに意味が宿るのだ。(黒人娼婦の部屋の壁にはマリア様の肖像画がある。)
 白人の女性ばかりを拉致監禁してもてあそぶ黒人ギャングの存在も、また然りと。


 そしてその土壌にない自分からすれば、
 とどのつまりニッポンジンからすれば、
 より普遍的なキーポイントは『家族』であろうと感じた。
 離婚して独身のままに定年退職を迎えようとするエディの保身は、家族を持たないだけに、浮いてしまっているとは思わないだろうか。
 守るべき家族のための大黒柱としての保身ならば(つまり無事に帰宅するという家族への責任・義務として)、同情のし甲斐もある。
 んが、
 彼の場合それが無いために保身が保身のままに宙ぶらりんになってしまっている。
 命のかけどこも無く、すなわちその見返りとしての安らぎどこも無い。
 根なし草。
 結局、保身の根拠を持たないために、彼は人生を見失っているのではなかろうか。
 娼婦を抱いても、永続的な幸福感には至らず。
 そしてそれが果たして自分の本心かどうかもわからないままに、娼婦に身請け(死語?)を申し出てみる始末だ。
 情けない。
 この告白は、つまり守るべきもの(その代表が『家族』であろう)を欲しがった衝動的な行為ではなかっただろうか。




 ならば、カネの工面と信仰の間で狂っていくサルの場合ならどうか。
 サルにとっての家族は守るべき対象であることは間違いない。
 んが、
 それを自身の信仰(倫理観)を揺るがすほどの『縛り』にさせてしまった。
 重圧、重荷と言い換えてもいい。
 抱擁と束縛はつねに表裏の関係で、本質(もと)は同じだ。
 ただ、どちらを表とみるかの解釈が、抱かれ縛められている当人の状況によって違うだけなのであーる。
 家族の「ために」という献身は、家族の「せいで」という被害者意識に容易に化けてしまうもので。
 それは神への想いにもついても言えること。
 つまり神のせいで、と。
 しかしながら自縛に自縛を重ねて堕ちていきながらも、彼は最後まで家族への想いばかりは『逆恨み』に変質させなかった。
 注目すべきは、そこでしょ。
 神への想いは報われず愛憎という形で噴出させはしたが、家族に関しては、それをしなかった。
 このようなキャラクターの場合、ヒステリックに家族にあたり散らすシーンがあって当然なのだが、サルにはその素振りすら、無い。
 ということから判るのは、彼にとっての『聖域』は神ではなく、家族なのだということ。
 彼にとって神は家族の幸福を支えてこそ神で、神への生贄として家族を差し出すなんてことは、本末転倒。
 という自己の矛盾にもきっと気付けなかっただろう。
 彼が聖書から得るべき教訓は、おそらくは『イサクの燔祭』と言われる逸話で。
 老いて授かった愛息子イサクを生贄に差し出せと神に命じられる、アブラハムの、あの葛藤のくだり。
 彼の神が本当に絶対であるならば、家族の不幸もまた神の意志のうちに違いない。
 ましてやその不幸の程度は生贄どころか、大家族的な貧困なのだから。
 日本流に解釈すればそれは恨みっこなしの『天災』のようなものではないのか。
 絶対が相手なら、受け入れるしかすべは無い。
 神(天災や運命のような絶対性)によるアブラハムへのむちゃブリは、不幸の極限でも尚、信心(倫理・理性)を保てるかという問いだ。
 試しだ。
 シミレーションだ。
 逆算して日常にフィードバックするための極論だ。
 サルの場合なら、貧乏人の子沢山と妻の病気を、身の丈でどういなし、どうボケて、受け入れられるかどうか。
 古典落語の『天災』にもあるが、木陰ひとつない大草原の真ん中で、突然の雨に襲われて、それを怒ったってしょうがない。
 いや、その絶対を恨み、天に唾することから数々の不幸が起こるのであって……。




 捜査官、タンゴ。
 犯罪組織に潜入捜査しているうちに敵に情がわいてしまうという話はよくあるもの。
 ましてや自身の所属する組織(警察)がいわゆるお役所的で、自分を将棋のこまのひとつのようにしか扱ってくれないとなると、義理人情にあつい悪の組織の方にぬくもりを感じてしまうのは想像に難くない。
 しかし、
 であるからこそ彼は、拒み続けていた『復讐』を遂行することになるのだ。
 情と復讐はワンセットだもんで。
 このタンゴの場合も、やはり『家族(彼の場合は妻)』がポイントになっていた。
 妻との仕合わせのためには、出世がしたい。
 けれど、そのためには妻にさえも捜査の内容は極秘にしておかなければならず。
 さらには捜査の性質上、別居状態を強いられる。
 仕事を下りれば妻の元にもどれはするが、出世も、そしてそれを条件とした生活水準ものぞめなくなる。
 仕事が縛りとなって家族の元にかえれず。
 連絡もとれず。
 また、家族への想いが縛りとなって、仕事を蹴れず。といった具合。
 嗚呼、無情。
 となれば、情に厚く、絶大な信頼もよせてくれる組織のボスにこそ心が移ろうというものだ。
 人は、自分を認めてくれる者に対して労力を惜しまなくなる。
 ともすれば命すらも賭ける。
 タンゴの場合、家族も、上司も、これに当てはまらず、ただ潜入先のボスだけが自分を信頼してくれているという訳。


 とここで振り返る。
 皆勤賞のヒラ警察官エディは、誰にも認められていないということを。
 長年ご奉公してきた警察からは、その定年退職において感謝の意すら表してもらえなかった。
 返還したバッヂもポイとダンボール箱にダンクされ、きわめて事務的に処理された。
 家族は無く、馴染みの娼婦とのあいだに芽生えていた恋心も、結局のところ報われなかった。
 その彼が最後にみせた勇気の行動こそは、不甲斐ない半生からの乾坤一擲。「我、ここにあり」なのだ。
 誰も守れず、
 誰のためにもなれず、
 従って認められず、
 自分のためにしか生きてこられなかった男の、ある意味、復讐なのだ。
 唯一の情のやりどころが、ついぞ自分だけだった。
 保身に保身を重ねてきたそのなけなしの自分さえ、娼婦にふられて喪失した。
 ああ死にたい。
 クライマックスでの勇気は、失った自分への弔い合戦で、つまりが復讐だろう。
 保身の意味を失って初めて得た、捨て身である。
 それがたまたま女性の拉致事件に向けられたのである。
 だからこの女性奪還時の彼には、被害女性個人への想いは薄く、犯人個人への憎悪も無く、また警察官としての使命感も無い(なんせ厄介払い的な退職のあとなのだから)。
 平たく言っちまえば、自己実現への渇望。
 生きたがるがゆえ、である。
 保身はゆるやかなる自死にすぎず。
 彼は人生の晩年にいたってやっと、死地に向かって、生を得たのだと思う。
 黒澤明の『生きる』ならハッピー・バースデイが流れるところだよね。




 サルとタンゴ、彼らにとっての家族の存在は、愛ゆえの足枷のような存在だった。
 タンゴに至っては「遠くの恋人より近くの他人」よろしく、情の足枷にまで絡み取られていた。
 けれどその縛りこそが、抱擁の裏返しであり、人を人たらしめるアイデンティティの要なのである。
 他方エディにとっては、それが希薄だ。
 彼の、しがらみの全くない、誰にも責任を持つことのない環境は自由ともいえる。
 しかしそのアイデンティティは、我を失うほどにおぼろで、儚い。




 人はしがらみのなかに生きねばならず、その複雑多数がまじわる交錯点でのみ確立する。





 ☾☀闇生☆☽

 
 ●追伸。
 とはいえ、邦題はぴんと来ない。
 映像的なタイトルではない。
 黒澤の『羅生門』は、その原作は『藪の中』である。
 原作のファンからすれば「真相は藪の中」的な意味として原題を賞讃するが、どうだろう。
 タイトルで語るなよ、と思う。
 とりわけ映画にした以上は、意味やテーマといった小説が表現できる部分の外側を味わいたいものであーる。
 その点、映画版のタイトルとタイトルバックは、あの時代、あの空気を象徴的かつビジュアル的に投げかけるのに成功していると思う。
 映画を思いかえすとき、誰しもがあの半壊の大門をアイコンのように思い出すのではないだろうか。
 意味を伝えるばかりがタイトルではないと思うのだが。
 クロッシング、か。
 原題も、言うほど素晴らしいとも思えないが。




 ●娼婦の家。
 まえにブリリア・ショート・ショート・シアターでみた一編でも同じような描写があって気になったのだが。
 あの家は個人邸?
 自分のアパートで春を鬻いでおられるの?
 用心棒がいる様子も無いから、どうしてもセキュリティ的な視点で懐疑してしまうなあ。 


 ●R・ギアって、心底、リア充顔だなあと。
 どう見たって有能な刑事顔でしょ。
 保身の臆病野郎の顔はしてないし、場末の娼館通いをするすれっからしの中年男の役は似合わない。
 ただ彼の代表作、セレブと娼婦の恋を描いた『プリティ・ウーマン』と、この映画での役どころを比べると面白いね。


 ●更に追記。
 コムズカシーこと抜きにして、ブルックリンという町の主役っぷりを堪能するのも、おすすめの味わい方ね。


 ●また追記。
 無防備な娼婦の家。
 文化の違いかとも思ったが、そういや『タクシードライバー』ではちゃんと用心棒というか、管理者がおりますな。