『干される』という状況は、ある種限定された環境の中での孤立である。
悲劇だ。
この言葉は単なる「仲間はずれ」「嫌われもん」というだけでなく、大概において収入を絶たれる意味において使われるもので。
ただの『孤独』なら慣れもするし、心がけ次第で愉しめるだろうけれど、経済的な『孤立』となってくるとそうはいかないらしい。
とはいえ『干される』は、くり返すが限定された職種や環境(たとえば各業種、各分野のギョーカイなるもの)のなかで、ということだから、そこにこだわらなければ、打開策は(少なくとも経済的には)無いわけでは無い。
ケービ員でもやればいい。
とこのケービ屋のはしくれは思ふ。
「現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿という」
立川談志。
そこへいくとこの人は過去再三にわたって『干された』理由を他者に見出してはあげつらっているわけであり。
そしてあげつらったことでなんら解決してもいないのであーる。
とどのつまりが現状の分析、受け止めが誤っているんじゃないかと。
その基点を誤った上で処理にかかっているんじゃないかと。
正直、この手の記事が出るたび、あたしゃ他人事ながらなかなかにつらい思いをするのだ。
↓
エド・はるみ「干された理由」を告白
はたまた
エド・はるみ「法的措置」に先輩芸人ら厳しい指摘 よしもとで孤立する可能性も
ましてや芸人ではないか。
むろん、芸人は人に非ず、とはさすがに思わない。
ただ遅咲き遅くしてその世界への転向を遂げたからなのか、肚が座りきれてない感は、ある。
思い込みかもしれないが、ある。
コトの真相は知らない。
強いて知りたくもない。
がそれ以前に、干されたのではなく、単に売れなくなったのではないのかという疑問がわいてしまう。
『干し』の元凶がひとつやふたつではないということは、それはそれで問題ではないかと。
当人は不本意だろうが干すも干されるも無く『一発屋』という世間一般からのイメージこそが、把握すべき現状ではないのかと。
そいつを徹底的に分析して、把握して、処理にかかればいいだけではないのかと。
複数の犯人を順に指さして罵っていったところで、何も変わらないだろう。
終わりが見えない。
仮に法的に勝利したとて、それが芸の勝利に繋がるのだろうか。
かえってハンデになるような気もする。
いや、
芸云々をさしおいてマジトークや法的手段に出てしまうところが「肚が座りきれていない」感の主成分になっているのだろう。
有体に言えば「洒落の通じない」というやつだ。
人は何を求めて娯楽を選ぶのか。
互いにせわしく苛立ち合い、
あいつが悪い、こいつが悪いと外にばかり責任を求め、
せせこましくやりくりする日常の延長を見たくて芸を見るの?
干され、嫌われ、孤立すらも笑いのめせ。
追伸。
エド・はるみバッシングなんて、いちいち検索かけなきゃ一般人が出くわすことはないって。
そこに過敏になっているとこが、ちょっとね。
夜な夜なエゴサーチに明け暮れる姿が透けて見えちゃって、こわい。
☾☀闇生☆☽