素人が、武骨で素朴なタッチで描く日常のちょこっとした身近な事ごとこそ味わい深いのであーる、といった売りで広まったと想像させる絵手紙とかいうのは、いまでも根強い人気があるのだろうか。
あたしは恥ずかしながら今でも紙の新聞をとっていて。
さすがに全紙を購読するゆとりはないので、半ばなしくずし的に産経だけをとっているのであるが、その読者投稿欄に掲載される絵をみるたびに、目に余る思いをしている。
いや、
他人の個人的な愉しみに口を出すほど暇でも、そして野暮でもないつもりではあるのだが、あまりにもこの絵手紙式が多いのでひと言書いておこう。
この手の絵には、なにゆえひと言を添えたがるのかという、そこだ。
ハガキいっぱいにぶっとい筆致でマツタケを描いて、そこにまた故意に武骨にした筆遣いで、こう書くのだ。
秋の味覚
なぜ、それを言いたがるのかと。
でかでかとサンマを描いては、
いただきます
ひまわり描いちゃ『今日も元気です』ならまだいい。
うっかり『元気ですか』とか『今日も生きる』なんてやられちゃった日には、どうするよ。
投降者の年齢とあいまって、化学反応的に哀愁がただならなくなってしまうではないか。
ああ、これはきっと年齢的な孤独がゆえなのだなと、そう踏んでいたところ、十代の投稿でも同じようなことがあって。
いまだにあだち充的な世界観で攻めてくる。
それはいい。それはいい。
むろん画風やテーマは違ってはいるのだけれど、そこに必ず説明的な言葉を入れてしまうのね。
あえて言うならば、要らない説明がつく。
ようするに無駄。
野暮。
ふと思ったのだが、これってテレビの執拗なテロップ演出から広まっている文化なのではないのかと。
いやいや、我々日本人には根っこのところにそういう過剰な説明癖があって、それがテレビにも現われているのではないかと。
どちらにせよ、こっちゃ苦笑するほかなーい。
あの絵手紙の言葉に。
んなこと言われても、と。
まばゆいばかりのひまわり畑に、入道雲の青い空。
そこに血で書きなぐったREDRUMの文字、とか。
そんなのならまだ鑑賞者側にも面白がれる余白があります。
☾☀闇生☆☽