Facebookに投稿されて問題となった児童虐待動画。
 渋谷駅の改札付近で母親が幼児を蹴り倒している映像から、警察が人物を特定したという。


 子をぶつ、ということは、昔からあった。
 けれど、蹴るのは、明らかに愛情がない。
 躾けでもない。
 叱りでもない。
 キレてるだけだ。
 子に手をあげることと、それを介する関係のそれぞれを、十把一絡げにして全て否定するつもりはないが、その心根のところにせめて『想い』はあってほしい。
 かっとなって、とかは論外だろう。
 育児が大変だとか、ストレスがたまっていたからとか、そういう問題に落とし込んではいけない。
 それでも、子にとって母は、母なのだから。
 殴られても、蹴られても、ついて行くのだから。
 将来この子は、老いた母の面倒をみるのだろうか。


 まず言葉、がある。


 通りすがりに聞こえてくる母子の会話のひとつひとつに、しあわせの欠片がある。
 しあわせは、その小さな欠片(ピース)をどんだけ積み重ねられるかだ。
 だから言葉づかいに、その関係は露骨にあらわれてしまうわけ。
 稀に、子を「てめえ」呼ばわりするママに遭遇する。
 うぜえ、とか。
 〜してんじゃねーよバーカ。とか。


 こんなことがあった。
 近所のスーパーの店頭にATMがある。
 金曜の夕方にはいつも列ができるのだが、
 先日、あたしが並んでいたところ、目の前に並んでいた女性が突如うしろのあたしの方に片足を後退させた。
 ちょっと驚いて退くと、その体勢でなんとアキレス腱伸ばしをはじめるではないか。
 しかも、後ろのあたしの存在を確認したうえでのことである。
 せめて体の向きを横にできないのか、と思う間もなく、そこへその娘とおぼしき幼女が駆けこんできた。


「ねえねえお母さん。巣がある」


 スーパーの軒下につくられたツバメの巣に彼女は昂奮しているのだった。
 母応えて曰く、


「ああ」


 見もしない。
 いらいらとアキレス腱伸ばしをしながら、肩を揉みはじめる。
 子はまた巣を見にそこを離れる。
 そしてまた駆け戻ってきて、


「おかあさん、おかあさん。ヒナが見えたっ」
「うっせえっつってんだろ。いちいちよお」


 芽生えかけた好奇心や集中力なんてものは、往々にして肉親が摘んでいるものなのだ。
 この繰り返しの挙句に、子は言葉を出し惜しむようになる。
 親の顔いろばかりうかがうようになる。
 二人の間にピースは溜まらない。






 子の顔面を蹴れるような母と子の間に、豊かな言語空間なんてものは無いね。
 断言する。
 無い。





 ☾☀闇生☆☽