スティーヴン・ソダーバーグ監督作『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳 別れの手紙』DVDにて
前者、カストロとの出逢いからキューバ革命達成までの苦闘もいい。
なんせカタルシスがある。
んが、
その感触の無い後者のボリビアでのゲリラ戦記が、やはり重く胸に残った。
その重さのタネは、現地民との革命意識のギャップだろう。
行く先々で募るまでもなく志願兵が群れ集まったキューバとは、大違いであった。
有体に云ってしまえば、革命意識どころか現状への不満がまるで高まっていないところへきての蜂起の呼びかけであったこと。
本来、戦闘の前に広めておくべきだった情報戦(民衆の蒙を啓くための)が未熟だったのだ。
多くが、流血の対価としての豊かさよりも、現状の『平和な貧困』を選んだらしい。
機は熟していなかったのだ。
革命とは、現地民が中心となって蜂起しなければ真の意味を成さないわけで。
いわずもがな、革命は各々の自立に依っており。
自立とは自分で立つということなのだから。
他者にどれだけ支援されてもいい。
担がれてもいい。
しかし最終的には立とうという自分の意志なくして、自立にはならない。
戦後に欲しいのは「自分たちで立ったんだ」という実感。自負だろう。
その実感が過去とこれからをリレーする誇りとなって、歴史を脈々と繋いでいくはず。
その繋がれる芯棒がしっかりしていればこそ、政治体制は上から布かれるのではなく、自分たちで選ぶのだと認識するし。
気に食わなければ自分たちで変えちゃえばいい、と腹をくくることだってできる。
ところが棚ボタの独立や自立ではその感覚が無いために、その後を主体性をもって歩めないのではなかろうか。
残るのはただ「自分たちは虐げられてきた」という被害者意識だけになるに違いない。
そんなようでは、いつまでも過去の恨みつらみを、ひたすらむし返すことでしかアイデンティティを保てないだろう。
たとえば明治維新を思ふ。
黒船、桜田門外の変を切っ掛けにして、維新の火付け役と云われる清川八郎が出。
それが飛び火して各国の学者や士分の間に大論争が巻き起こり。
やがて関ヶ原の負け組であった諸国の下級武士たちが「おのれ300年の恨み〜」とばかりに決起すると。
むろん利害の一致する諸外国からの支援をとりつけつつ維新は達成されたのだが、結論として残ったのは「自分たちで変えたんだ」という実感だ。
けれど、中心になったのは実のところ武士たちで。
武士たちが武士同士の闘争の果てに自分たちで武士階級を無くしたのが、維新の本質ということであり。
人口の大部分を占めていたはずの農、工、商、その他は、例外もあるものの、中心にはいなかった。
むしろ佐幕側の新撰組などに目立っていたくらいか。*1
そんなところが、いまひとつ我々にも棚ボタ感覚が抜けないところかと、感じている次第。
呵々。
あ。
別に革命を礼賛してるわけじゃありません。
革命、と言われるほどの大変革は、その直後に必ず大反動がおこります。
「いけね。壊しすぎちゃった」
とばかりに大概が極度の右傾化にいくでしょ。
振り子の要領です。
その極端なブレを抑えるのにも、歴史に依拠したバランス感覚は大切なんだろうなあ、と。思っとる次第であります。
というわけでこの映画でのボリビア。
のちの『ファン』が英雄伝説を欲しがるのはわかります。
んが、あたしゃ外国人がのこのこ出て行ってやることじゃないとも思っています。
あくまで外部はほど良い支援まで。
やっても黒子に徹すべきでしょう。
などとつらつら、『北』を思いつつ。
☾☀闇生☆☽