覚醒剤を使用した理由?
んなもの好奇心以外のなにものでもないでしょーに。
少なくとも『とっかかり』はそう断言できるよね。
悩みだなんだなんてのは後付けだと。
てめえの下心をコントロールできなかっただけだと。
もしくは、しなかった。
なにか超越した快楽があるんじゃないかっていうすけべ心があってこその、動機付けだろう。
自分内弁護だろう。
今日はがんばったから自分へのご褒美でスイーツ!! 的なやつと、精神構造的にはなんら変わらない。
そりゃあ良し悪しの程度はまるで違うが、下心を成就させようとする姿勢はね。同じです。基本的に。
まずスイーツの愉悦ありきだものさ。
して、それへのうしろめたさあってこそだものさ。
だもんで、おそろしいのです。
人間は多面体。
誰にでも、そうなる可能性があるという意味においてね。
有名人がこの手の事件を起こし、
そしてそれを罵る報道が流れるたびに、あたしらの脳裏には
「それほどまでに気持ちいいのか」
という好奇心のタネが刷り込まれていきますわな。
繰り返せば繰り返すほど、
「おお、それほどまでにええのか」と。
あきれ顔で批判してみせたその理性の裏側に、知らずに書き込んでいる。
名誉名声をおじゃんにするリスクを背負ってまでやりたくなるよーなものなのかと。
いや、有名なほどそのリスクもでかいわけで。
緊張が大きいほどに、そこからの緩和によって得られる快楽も大きいわけで。
なんにせよ、すんげえきもちいいらしいぞと。
まあいいや。
かつていここにも書いたけれど、ハマっちゃった奴は別人になってしまいますな。
それ自体が恐怖であり。悲しみでもあり。
周囲にとっては、ほんとうに迷惑なんだけれど。
中毒症状特有の疑心暗鬼が、負の連鎖式に広がって、人間関係はずったずたにされます。
関係を絶ちたいがために職場や現住所、ケータイまで変えて消えた人もいます。
それでも「チクリ」を恐れて彼らは、人間関係を芋づる式に辿って追ってくるのです。
そうやって人が離れるほどに孤独が深まり、その孤独をツマミに、またハマると。
もうね、エンドレス。
人生の目的と手段くらいは、少なくともぼんやりとでもいいから念頭にしておくのが、せめてもの予防策なのかもしれない。
その目的を脅かすような好奇心には、警戒すると。
追記。
よくさ、うすっぺらい反捕鯨論者が云う、
「くじら食べなくても生きていけるじゃん」
式の物言いがあるじゃない。
でもドラッグに関しては、そういう能書きをあまり聞かないでしょ。
MDMAなんてなくてもいきていけるじゃん、とか。
それを言わせないところに、無意識の好奇心があるのであり。
ひとつ覚えに「手を出すな」に終始してしまうということは、最低でもそこに快楽があることは、認めているのであり。
なおかつ、人間つーものは生存するのに最低限のものが食えるだけでは満足できない生き物なのだということの証左でもあるのね。
健康なのに点滴だけで何十年も生かされても、どうなんだと。
さらに言えば、音楽も文学も芸術も『単なる生存』にとっては決して必要不可欠なものではないということだ。
有体に言えば、文化とは無駄でできている。
無くても、生きてはいける。
けれど、それで人生どーなのよ、という問題だ。
そこに付け入ってくるんだな。好奇心が。
かつて政府広報のCMは、
「覚醒剤やめますか。それとも、人間やめますか」
と脅したものだった。
んが、
考えてみれば人間だから覚醒剤に手を出しちゃうのね。
根本的なところは、そこ。
ニンゲンだ。
ニンゲン、何さまかと。
自分のニンゲンなんぞ自分でコントロールできるわい、という慢心が、不幸を生む。
それが簡単にできるなら釈迦もキリストも苦労はしなかったよ。
☾☀闇生☆☽