ヘンリー・セリック監督作『コララインとボタンの魔女』DVD





 ネタバレ感想です。











 退屈な現実から非現実へと逃避した子供が、痛い目にあって現実へ逃げ帰ってくるという王道ファンタジー。
 物語の基点となる現実世界とは現代であり、子供からみた大人のつまらなさだ。
 それは仕事に明け暮れて生気を失った顔であり、
 日常に飽き、
 驚き、驚かせることを忘れ、
 面白味も、
 変化も、
 夢さえも見失った、
 すれっからしの後ろ姿だ。
 言い換えれば、親による子への無関心が生んだ退屈な世界。
 ほったらかしである。
 そして、そこから逃げるように飛び込んだ非現実とは、
 面白く、
 おかしく、
 珍奇で、
 驚きにみちて、
 すべてが自分へ関心を持ってくれる世界。
 有体に言っちまえば、自己中心的な世界だろう。
 それは子供にとっての理想だったはず。
 んが、
 子供はその理想を事細かに裁量できるような器量は持たないし。持ちようもない。
 ましてや理想世界を独裁できるほどの主体性も、まだ拙いと。
 ただ与えられるだけ。お客さまとして扱われたがるだけである。
 となれば、世界の主導権を手にできるはずもなく。
 ならばそんな理想の非現実であっても、客である以上、タダではすまされない。
 なんらかの秩序無しには世界は成立しえず。
 そこに僅かでも社会性があるのなら、義務なしには住み続けることは許されないのだから。


 秩序
 それを保つには人それぞれに異なって然るべき理想の統一が、してその共有が、ある程度求められる。
 その縛りがゆるむほどに、ただちに放埓、混沌、混乱へと陥り、
 逆に厳格化するほどに、束縛となり、独裁となり、全体主義にと落ちていく。
 個人への度の過ぎた関心は、単に束縛に過ぎなくなるのであーる。
 義務
 自立としての自由は義務との引き換えでもあり、ワンセットだ。
 だからこそその組み合わせには、広角で長期的な視野に立ったバランス感覚が不可欠になるだろう。
 んが、
 その義務がなんと本作では眼をボタンにすることなのだというから、痛い痛い痛い。
 眼を取り換えるというのは、同じ世界『観』の絶対的な強要を意味するのではないだろうか。
 服従。
 もしくはロボトミー
 理想と引き換えにするには、あまりにも割が合わない。
 そしてその国は、現実の『無関心なママ』の裏返しとしての『もうひとつのママ』が統べている。彼女は、子への偏愛という母性の一側面を象徴する。
 娘コララインは親の無関心に背を向けて、自らが関心の的とされる世界に逃避した。
 なのに結局は、そこでの偏愛に束縛を感じて現実へ逃げ帰るのだ。
 独裁世界というものは、いかんせん独りぼっちの理想である。
 たとえ非現実であっても、狭い。
 あにはからんや、狭い。
 独裁でなくとも他人の世界は、その形の違いから、誰にとっても窮屈なのであーる。
 娘コララインが、もうひとつのママの世界に窮屈さを覚えるのは、まさに個の芽えを意味してはいないだろうか。
 過ぎたる抱擁は束縛で、適度なほったらかしは自由への入口であることを嗅ぎ取ったのかもしれない。
 しかしそこでの自由は漫然としていて与えられるものではない。
 お任せコースでは、あかん。
 自分からはじめてこそだ。






 はじめまして、から始まる。






 最後に、
 現実世界と異世界との境界線が『隠しドア』と『眠り』だった。
 そこを行き来する者として『ハネネズミ』と『黒猫』がいる。
 しかし、境界を突破して現実まで追いかけてきた魔女の手は、どうだ。
 ああいった『夢だけど夢じゃない』系のくだりは、もっとささやかでさりげない方が効果がありそうだ。
 本作のは、ひょっとするとトゥ・マッチだったかもしれない。


 それと『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』の監督らしい、全編にわたるブラックな演出が効いている。
 これには何度も苦笑させられた。
 夜の庭での音楽をベースソロにしているのが新鮮。


 宮崎アニメ、『不思議の国のアリス』など名作ファンタジーへのオマージュも、多く見受けられる。







 追記。
 たとえば結婚も就職も転職も、
 上記のような、自分を歓迎してくれる非現実(ファンタジー)に見立てて受け身で挑めば、まず間違いなく希望は失望に帰結する。
 人っちゅうのは、あさましいのよ。
 他者への理想だけは、際限なく肥らせんだ。
 「さあ。愉しませてごらん」
 というマグロな客ではなく、
 「愉しんだろ」と。
 あるいは逆に
 「愉しませたろ」的な姿勢でいないと、人生の主役にはなれないんだろうな。
 
 

 ☾☀闇生☆☽