心配する、
ということ自体を神聖化してはいけない。
「あなたを心配している」
そう言われたところで、当人はどうすればいい?
解決の手立ての無い心配を相手に報告したところで、どうなる?
そこには何の解決も進展もない。
心配をする人の自己満足に過ぎないっての。
そしてそれは知らずに『感謝の強要』になっているのだ。
感謝をされたくて、自分の心配を吐露しているだけだ。
重荷だわぁ。
心配は勝手に、密かにするべし。
心配をしている、という報告は、往々にしてそれ自体が相手に取っての心労だし、苦痛でしかないのである。
「嗚呼、心配をかけてしまった」と。
本当に心配しているのなら具体的に解決への手段を考え、それを提案するなり、提供するなり、行動するなり、しないなり、導いてこそではないのかと。
よって本当の心配は、優しさに繋がるはずではないのか。
繋げるべきなのだ。
留意すべきは心配そのものが優しさなのではないということね。
対して解決のない『ぼんやりとした心配』なら、それは『不安』というべきものであり、天変地異や天気や老化に心を煩わせるようなもの。
心配したってしょうがない。
親が子を心配するのは、当然だろう。
けれどその心配を心配のままに「その子に訴えること」に、意味は無い。
愛も無い。
少なくとも犠牲愛にはなっていない。
飢えるかどうか心配なら、食料を送れ。
栄養バランスが心配なら、サプリ送れ。
てめえで飯つくってやれ。
病気で心配なら、医者に連れてけ。
看病しろ。
未婚が心配なら、引きずってでも結婚相手を連れていけ。
浮気が心配なら、監視しろ。
貞操帯で縛めろ。
パイプカットしちまえ。
いっそちょんぎっちまえ。
治安が心配なら、ボディガードを雇え。
家から出すな。
孤独が心配なら、話を聞け。口をこじ開けてでも引き出せ。高田文夫になれ。
それができないなら、心配を宣言するな。
繰り返す。
心配宣言は往々にして自己満足に終始する。
心配を心配のままに垂れ流すなよ。
追伸。
「心配してんのにぃ」ぷんぷんっ。
とな。
☾☀闇生☆☽