点、とは。
2本の直線の交差したところである。
平面の座標上で考えれば、縦軸と横軸を基にそれは見出され。
立体ならば、それにまたもうひとつ、高さの概念を加えることで規定される。
けれど、厳密にいえばその『点』は、そこにあってそこにないのね。
直線の交差点をペンでちょん、とマーキングしたところで、そのインクの染みには面積が生まれてしまうわけで。
さらにミクロな視点を効かせれば、体積もできちゃうわけで。
2次元の下位世界としての点を正確に見出すことはできない、らしい。
追いかければ追いかけただけ遠退いて行く円周率のように、確かにそこにあるのに、規定されることを『点』は無限に拒み続けていく。
実のところ『わたくし』とは、
その『点』のようなものなのではないのか。
わたくしは人間である
日本人である。
男である。
○○歳である。
父は□□である。
母は△△である。
※※という名の姉がある。
兄がある。
職業は、何々である。
現住所は、何処何処である。
名前は、
……と自分を規定する諸々をどれだけ挙げていったところで、それらは『わたくし』の輪郭部を表しているにすぎないの。
点、そのものではない。
座標軸を延々と増やし続け、執拗に点の在り処を限定していくことでしか『わたくし』は、見えてこないはず。
我々はそれらの輪郭によって、確かにそこにあることを確認しているに過ぎない。
社会との多種多様な関係性でのみ、わたくしは、わたくし足りえるのである。
でね、
それを空しさと考えるのも一興ではあるの。
いわゆる『自分探し』が不毛なのは、実感できる『点』そのものに辿りつけると思い込むからで。
円周率のケツを追い続けるような行為である。
んが、
この『わたくし』を規定する無限の諸条件というもの。
これをね、興味(好みや関心)という観点を中心に考えると、面白いのね。
たとえば音楽はビートルズが好きである。
異性の好みは、何々で。
好きな食べ物は。
写真は。
映画は。
と挙げていくことで、わたくしを縁取っていくとするならば、それは無限に可能性があるということなのだ。
どれだけそれを挙げていっても、自分を表現しきることが無いという、自由。
好きは、無限でいい。
とまあ、Tumblrを見ていて、そう感じたのであった。
言いたいこと、表現したいことを、自分の言葉で発信していくことばかりが自分という『点』を明らかにしていく行為ではないのだと。
そもそもね、自分の言葉、自分の考え、などを持っている人は、極々一部だよ。
考えの基礎である言葉自体が、過去から延々とリレーされてきた他人のものなのだから。
借り物だ。
ならば興味を、ただ羅列していくことで、露わになっていく自分というものもあるはず。
それぞれはわたくしそのものではないが、わたくしを縁取る一部であると。了解したうえで、挙げ続ける。
そしてその羅列は完結することがない。
可能性は無限だ。
キューピッドのいたずらで、ダフネを永遠に追い続けるはめになったアポロンは、むしろ幸福なのかもしれないと。
未完でこそ、恋なのだ。
☾☀闇生☆☽
んじゃ、ちょっくら帰郷してきます。