そういやその昔、働きに「出る」という言い方をした。
 いや、いまでもそうだ。
 たとえば女性の社会「進出」的に、そこは「出る」イメージを名残りとして持っているわけであり。
 社会に「出て」何らかをゲットして、おうちに持ち「帰る」と。
 狩りに出て獲物をとるなり。
 畑に出て収穫するなり。
 工作したものを売り歩いたり。
 するとそこに人が交錯し、ありとあらゆる他者との接点にルールが必要とされ、整備されて、社会というものが生まれる。
 社会が外で、家が世界の中心だった。
 福は内で、鬼は外だった。
 そして家を富ませるために、人は厄介な外に出たのだろう。
 それが時代とともに次第に逆転していくような気がしていて。
 気がつけば社会が表舞台で、家が舞台裏になってやしないかと。
 家が、厄介になってやしないかと。
 外が、社会が、人生の中心になっちゃったのではないかと。
 むろん社会と家とは、厳密な意味においての対立概念には成りえない、
 のだろう。
 んが、晩婚だの、結婚しないだの、子を作らないだのという流れは、どこか試合終了間際の「みんなあがれあがれ」のような観があって。
 サッカーの、負けている試合の終了間際のアレね。
 ディフェンスはむろんのことキーパーまでもが攻めに行くあの光景である。
 しかしながら、それもまた守るべきゴールがあってこそだと。
 それも制限時間いっぱいいっぱいのなけなしであることを思い出すのだな。
 あたくしなんかは。
 その点、現状にそこまでの緊迫感は無かろうと。
 むしろそもそものゴール意識が希薄になっているのではないのだろうかと。
 平時は、誰かが「出る」を担当すれば、他の誰かがそれをバックアップなり、フォローするもので。
 状況に応じて全員で「守る」こともするし。
 時にはディフェンスが上がるのを、オフェンスが下がって援護したりもする。
 男女への育児休暇推進や、産後の女性の社会復帰の促進が、おそらくはそういうことなのだろうし。
 しかし思うようにそれらの運動が機能しないのは、問題はそこには無く、守るべきゴール感覚が希薄だということではないのか。
 つまり娯楽にあふれ、ファストフードで事足りてしまう日常では、帰るとこにどれほどの意味を抱けるのだろうかと。
 死守すべきものもなければ、捨て身にもなれず。
 自然、そこを守るためのチームも、チームワークも、軽視されがちで。
 なんせ全部「外」で済んでしまうものな。
 楽で、愉しむ自己があればいいと。





 去年のいまごろ担当したケービの常駐現場。
 持ち場からはログハウスを気取った喫茶店が見えた。
 平日の午後は貸し切りで、スウィーツづくりの教室が開かれていたものだ。
 完成後の試食タイムにはみんなでワインなんか揺らしちゃったりしてさ。
 談笑したりしちゃってさ。
 休憩時間、職人さんがそのガラスの向こうの光景をアゴで指して、曰く。
「こういうやつらの旦那って、なにやってんだろな」
 誰かかそれに応えて、
「今ごろ泥まみれでアングル運んでるよ」
 と笑ったものである。




 出るとこ。
 と
 帰るとこ。

 




「行ってまーす」
 には、戻ることの約束が含まれているわけであり。
 アムロ
「行きまーす」
 には、その意識が薄い。
 独身の、それも兵士であるが故なのか。
 
 








 いやなに、
 ひとりもんのおっさんとしてね、
 自己分析をね、
 つらつらとね。
 してみましたね。
 はい。
 おやすみなさい。





 ☾☀闇生☆☽