壁の言の葉

unlucky hero your key


 ふと思い出した。
 上京してすぐに入った会社でのこと。
 そこでは新人を決してひとりにしない、ということが徹底されていた。
 それは自分の下に後輩ができてはじめて明かされたことだったのだが。
 思えばそれこそトイレに立ってさえも、なぜか先輩がついてきていつも連れションのようなことになっていたのである。
 有体に言って、うざかった。
 ひとりでしょんべんしたかった。
 ひとりでできるし。
 生来、あたしゃひとりが好きだったのだ。
 スキが高じて、ついにこじらせてしまったくらいである。
 なので、ひとりこそは束の間の息抜きであり、連れションはそれが邪魔されるようでそれはそれは煙たかったものだ。
 新人がふと席を立つ。
 トイレか。
 あるいは一服か。
 すると、管理職が裕次郎のこどくに部下へするどく目配せをする。
 ゴリさんがその意を汲んで、あとを追うと。
 きもいと言えば、きもい。
 いや、はっきりときもい。
 んが、彼らの理由はこうだ。
 新人というものは、未知の世界のまっただなかに闖入してしまったような存在で、終日不安のなかに居る。
 不安とは、何か。
 解決策はおろか問題点すら分からない状況であり。
 とどのつまり、何が何だかわからないと。
 そんな出口の無いままに独りになれば、その思考は決してポジティヴな方向には向かわないと。
 ましてやそんな新人同士が喫煙室などで鉢合わせれば、どうなるか。
 共感のよりどころは不安や失敗、愚痴などの話題でしか得られないはず。
 えてして彼らはネガティヴ面でつるみたがる。
 当人にとってはむろんのこと、チームにとってもそれはよろしくないと。
 無理にでも先輩がそこに絡んで、愚痴もまた夢(目標)に変換してやれとのことだった。
 ネガティヴをポジティヴに。
 夢を語れと。
 仕事の醍醐味を分かち合えと。






 先月まであたくしが派遣としてついていた現場で、新人職員がひとり消えた、と風のうわさに聞く。
 出勤してこないのだという。
 髪がぼさぼさになり、不精ひげが目立ち、笑顔が無くなったと思っていたら案の上である。
 思えば休日出勤、連日の残業と、見かけるのはひとりで図面を睨んで頭を抱え込んでいる姿ばかりだった。
 勤務態度はまじめだし。
 礼節も愛想も気持ちいい奴なので、あたしの所属した会社の管理職が引きぬきたがっていたくらいだ。
 なんせ業界的には、若い人材が致命的なまでに欠乏しているわけで。
 それを、おめおめと使いつぶしにしているのだから、この組はアホかと思った。


 のろい殺したくなるような一瞬の憎悪や汚泥のような疲れも、ちょっとした言葉で揮発するものなのだ。
 むろんそれは上からの心がけの継続あってのことなのだが。
 外から見るに彼の場合、紋切調の宿題と雑用を山ほど押しつけられて、ほったらかしにされていた。
 

「ああはなりたくない」


 という捨て台詞で、立て続けに新人が辞めていった。
 かつてそんな会社に関わったことがある。
 して、その問題への対応策を管理職が会議しているのを耳にしたことがあるのだが。
 曰く、


「俺らの若い頃は、もっとしんどかった」


 あたしが書記としてその議事をまとめたならば、そのひと言で事足りてしまう。
 そして、過酷な現場での武勇伝をそれぞれに語っていくわけ。
 苦労自慢大会である。
 休日が足りないのではないのか。
 給与・賞与面はどうか。
 などと会社の未来に危機感を抱く議長が次々に問題点をさぐりにかけていくが、古参は意に介さず、


「俺らの若い頃は」


 に終始した次第であーる。
 彼らは確かに、正しい。
 正しいが、そこに救いはない。
 救えねえよ。
 結局ところ、そんな風に仕事仕事で定年までを費やした結果、趣味の一つも持てず、また家にいても落ち着かず、うるさがられて、減給承知でのこのこと現場に出てくるしか居場所がない老後。
 ああはなりたくない、の「ああ」とはそれを指していることに気付け。
 そこが何も解決していないと。
 べつに悠々自適に老後を遊んで見せるばかりが仕合せだとは思わない。
 老いてなお働ける、という仕合せがあるなら、それを語ればいい。
 そしてまず確認すべきこと。
 それは、今の子供たちに「戦後の焼け野原」の話や「戦時中の貧困」を語るだけでは、現在の恵まれた境遇への感謝こそすれ、それが未来への意欲にはつながらないのと同じように。先輩が後輩相手にドヤ顔でやらかす職場の武勇伝やら苦労自慢は、単なるガス抜きに他ならない。
 自己満足だ。
 それが上を尊敬する元になると思ったら大間違いだ。
 新人は「ほおお」と表面で感心してみせて、胸の奥で軽蔑している。
 尊敬は実際に行動するその背中が、勝手に集めるものだろう。
 仮に苦労話で後輩の謙虚を育めたとしても、それが今日の労働意欲や躍進に繋がるとは限らない。
 論点が武勇伝大会にそれる一方なので「一〇年後、二〇年後の会社のために」と議長が問題意識を糺そうとしていたが、ダメなようだった。
 当然だが、俺たちに問題はないという結論ありきの会議に、解決策が出るはずもなく。
 それはさながら被告人も弁護人も不在の裁判のようなもので。
 挙句、若くてよく動くヤツ入って来ねえかなあ、という神頼みを口走る体たらく。
 そういう、こき使いたがりの臭いが、若い人を遠ざけてるんじゃないのかね。


 連れション。


 方法論は、あるいは誤っているのかもしれない。
 なんせ結局はあたしゃそこを辞めたのだから。
 ましてや現在ではスマホやネットなど、ともすれば一人でネガティヴを増幅させる機会に溢れているわけであり。
 いとも簡単に『程度の低さ』で繋がれる。
 程度の低さでつるむのは、なんせ楽なんだ。
 とてもとても連れションや一服、飲みにケーション程度ではフォローしきれないだろう。
 けれど、少なくとも問題意識を強く抱いていた会社ではあったようだと、思い返した次第であーる。




 ☾☀闇生☆☽