クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト・ライジング』DVDにて


 人気も歴史もある外国の漫画キャラクターの話であり、数ある続編のひとつでもあるので、そう軽々しく感想も言えない。
 というのもご覧になってわかるように、一見して貧富の差を逆転させようという悪者が敵として登場する。
 そこはヒジョーに分かりやすい。
 それをベテラン資本主義国家が作ってしまうのだから、べったべたでもある。
 そのリーダーがベインというマスクの男で。
 簡単に言うとこの物語の舞台となるゴッサムシティという人工島を、彼らは乗っ取ってしまうのである。
 住人たちを人質に、核を凶器として。
 誰か一人でも街を出れば核のスイッチを押しちゃうよ、と脅すのだ。
 して、街を金持ちたちから取り戻せとの号令をかけ、街を大混乱に陥らせると。
 富者は街頭に引きずり出され、辱められ、略奪されて、挙句、処刑という結論ありきの裁判に掛けられていく。


 でね、
 結局のところこのくだりが、上映当時の米国の貧富・格差の社会状況や、ウォール街でおきたデモ騒動にタイムリーだったので、本国で社会現象になったというのは頷ける。
 評価は別として。
 そりゃ話題になるさ。
 けど、ベインは底辺から這い出て革命を訴えたにもかかわらず、人質にとった底辺の者たちを巻き込んで最後は自爆しようとしたわけでしょ?
 そこらへんがよく分からんかった。
「富者から街を取り戻せ」とのたまっておきながら、皆殺しだ。
 取り戻そうが、戻せまいが。
 で、ネットであれこれつまみ食いしてみてわかったのだが、彼の師であるラーズ・アル・グールという人物の主義がどうやら反文明社会らしい。
 格差を生む資本主義に抵抗するのではなく、文明に溺れゆく人間そのものが、救えねえ奴らであると。
 なんならポアしてあげましょと。
 そういうことだ。
 いいのか、そんなやっつけな解釈。
 と自省しつつ、前作の悪役ジョーカーも根っこはそうではなかったかと。
 大金を手に入れてもそれに浴さず燃やしてしまうという、文明を笑い飛ばす存在だったのではなかったかと。
 我々が絶対であると信じているものの本質を見透かして、こんなもん屁じゃい、と壊す、
 ことによって、作品として再確認をうながす、と。
 ベインは自らの生を捨ててまで人々を巻沿いにしようとした。
 心中だ。
 これもやはり自爆テロみたいなものなのだろうか。
 しかしジョーカーと比べて甘いのは、すべてを笑い飛ばし切れないところ。
 だって泣いちゃったんだもん。
 ずるいよお。
 でかぶつ怪物系の涙は、ずるい。
 情念の起爆剤として、恋、を匂わせちゃあ、ずるい。


 ともかく、
 一筋縄ではいかない映画ではあるらしい。
 しかしながら『格差』『勝敗』のイメージが空間的な『上下』関係として執拗に繰り返されていた点。
 そこはシンプルだ。
 ベインが育った地の果ての牢獄『奈落(ピット)』には、はるかな地上に向けて井戸のような穴があいている。
 それを這い上がれば、地上に脱出でき、晴れて自由の身になれるという趣向なのだ。
 達成に不可欠なのは「肉体ではなく、自由を求める心だ」とのアドバイスに、主人公ブルースは「怒りだけだ」と答える。
 この井戸の難易度こそが、負け組からみた成功の難易度に重なってしまうのは仕方ない。
 とどのつまり「ウォール街を占拠せよ」"We are the 99%"運動で白日の元に晒されたアメリカンドリームの難易度である。
 そのブルースといえば、没落するまえは、お馴染みバットマンの装束でビルのてっぺんから街を見下ろし、引きこもってはバルコニーからパーティを見下ろし、といった具合。
 人民裁判も、裁判長は高々と積み上げた机の上から被告人を見下ろして刑を下す。
 死刑か、追放か。
 その選択を許されはするが、追放もまた氷の河を歩いて渡る酷刑で、ほとんどが薄い氷を踏み抜いて冬の河で凍死する。
 ここでも『落下』である。
 テロの殲滅に投入された警官隊も、地下へ地下へと誘導されて、閉じ込められてしまう。
 警官は富者ではないかもしれないが、少なくとも安定はあるだろうと。
 して公平・公正を方便としている以上は、現状の格差社会を守る側という一面も持つわけで。
 暴走した底辺からすれば、やっぱ敵ですわな。
 このようにステータスの変化を上下の運動であらわすのは古くからある演出法なので、意図的にしているとは思うのだが、どうだろう。



 奈落(ピット)を登りきった少年は、外に救いを求め、のちに復讐に戻ってきた。
 それにくらべブルースは上りきるなり、その井戸の縁に束ねられてあったロープを底へ落とし、振り返りもせずに立ち去っている。
 ただちに救いに行くゆとりがなかったからかもしれないが、取り急ぎチャンスは与えている。
 勝者が底辺に。
 これも象徴的だと思った。




 追記。
 あれだけの装備のバットマンを、いくら人海戦術とはいえいちいちピストルの警官で包囲するのが、可笑しかった。
 キャノン砲を装備したバイクをピストルで包囲して「袋の鼠だ」ってのは、どうも。
 
 
 キャットウーマンのゴーグルが、外すと猫耳になるアイディアは、秀逸。
 やりすぎると漫画だし。
 強調が弱いとアメコミならではの楽しさがなくなるしというその加減が、センスなのだろう。






 さらに追記。
 いまふと思った。
 バットマンが這い上がりのカンフル剤とした『怒り』。
 アメリカのヒーローは、その正義を常に『怒り』を起点として作動させてきたような感触がある。
 アンチヒーローを謳った『許されざる者』ですらそうだった。
 プロレス・ショーにそれはとみに現れていて。
 一度こらしめた悪役に汚い手でやりこめられ、ところが怒りを爆発させ観客の喝さい(民主主義的多数派)を後ろ盾に復讐をとげると。
 いや、違うな。
 共感を呼ぶ怒りこそが正義なのでは? ひょっとして。
 これ、たぶん前作の方が強調されているのだろうけれど。
 ときに法の壁さえ越えてジョーカーを追い詰めたバットマンは、まさしく怒りの人だったね。
 そのあたりにも国民性が現れているような気がしている。


 さらに、つらつら。
 振り返って日本はどうだろう。
 怒りとか正義とか、というより美徳が強い気がする。
 そうしなければ恥ずかしい、かっこわるいという美意識ね。
 古き良き「いさぎよさ」や「あっさり」という精神性だ。
「名がすたる」
 とかさ。
 ものすごくベタな例でいえば赤穂浪士の自分のケツの持ち方と、それに喝采した市民というやつかな。
 むろんなんだってその欠点ばかり見つめればきりがないけれど。
 この美徳の逆側にあるのが、昨今ニンゲンの醜態としてさらされる「ねんちゃく」的なあれこれではなかろうか。
 いや、ちょっとね。
 昨晩、昭和の歌謡曲を検索してたら別れの曲が多くて。
 みんな健気なのよ。ほんと。
 いまのJ-popの歌詞を知らないからなんとも言えないんだけれど。
 好きな人から、そっと引いていく歌が多いなあと。

 



 さらに追記。
 大東亜・太平洋戦争の開戦時の方便。
 米国は、真珠湾攻撃への『怒り』をその大義の発端とした。
 9.11の際にも、テレビは執拗に真珠湾攻撃の映像を繰り返し、その怒りを煽った。
 事実はどうあれ、わかりやすさを求めるのね。彼らは。
 あの映像と「それいけ復讐だ」でオッケーなわけ。
 そこいくと日本はどうだったのか。
 俗に「鬼畜米英」などと言われたらしいが、これを見る限りやはり哀しいまでにお人よしだと思ふ。
 して、愛すべきまでに馬鹿丁寧で、マジメで、ようするにポップではない。
 ↓
 開戦の詔勅


 この構図が、いまだに隣国相手に続いているわけだ。
 例の慰安婦の問題で。
 だってわかりやすいもの。被害者って。
 大雑把でいいわけ。
 涙と叫びでいいわけ。
 もうね、ポップなわけ。
 対して「それは言いがかりである」と弁明するのは、骨が折れるしゴールが無いの。
 どこまでもどこまでも後手後手にいくしかない。
 それでもくじけず、ひとつひとつ史料によって虱潰しにしていく丁寧さが求められるわけで。
 そんな真摯で綿密で執拗で論理的なのたまいはまず、ポップでないの。
 有体に言って、そんな奴、モテない。
 わかるっしょ?
 カノジョに対してする「浮気はしてない」という説明がいかに徒労で、不毛か。
 理屈は一切通じない。
 感情にいかに訴えたかの勝負。
 ああ。クレーム対応も似てますね。
 心から謝れ、みたいな決して正解のない世界。
 


 といって、国際社会にこれ以上のゴネドクをはびこらせるのは、もううんざりだ。
 やっぱ地道にやっていくしかないのだな。
 モテなくて上等じゃいと。

 
 




 ☾☀闇生☆☽