日本で、日本人が外で食べながら歩いているのは、どこかサマにならない。
けれど、海外だとそれがサマになる。
それは、自立できているかいないかの問題ではないのか。
つまり私は食べたいから食べたい時に食べる。恥ずかしいことではなく、世間体でもなく、自分の意志でそうしているという違いではないのか。
な〜んて考えを某女優が話しているのをJ-waveで聞いた。
日曜夜十時台。
聞きながら恥ずかしくなった。
とまあ、この恥じらいこそが日本の文化の要なのですな。
恥の文化なのです。日本は。よそがどうであろうが。
彼女の言う海外がどこの国を指しているのかは不明だった。
んが、これ、ん十年昔からよく言われることだよね。
もー飽きたよ。
挙句、自立せよ。でしょ?
裏テーマとして「だから日本はだめなんだ」というそこにこそ民族的な反省癖があるわけで。
涙ぐましいほどに健気なわけで。
だもんで「またか」と思った次第であーる。
その「いわゆる」海外の多くが、絶対神としての神とのマンツーマンの関係であるのに対し、日本では違うわけだもの。
その恥じらひというのが矜持の根本にもなり、わびさびの根幹にもなり、潔さや献身の発端にもしているわけ。それこそ例の「江戸の風」だ。
そしてそれは非常時の公的冷静さにまで繋がっているわけだしょ。
つなげているわけよ。
そしてそんな確認が、ただちに海外を否定することにはならないよね。
つまりよそんちがナイフとフォークで食べていようが、うちらは箸とお茶碗だよということ。
独自の食べ方をしていないからといって自立している、していないとは別次元だと思う。
ナイフとフォークがサマになる必要性とは、いったいどれほどのものなのか。
そして海外の人がお茶碗とお箸を自然に(日本人のように)使えることの重要性は、どれほどなのか。
その世間体というものもまた、自意識が作りだしている。
その規模を押し広げれば、国際というものも、そうだ。
そこに翻弄されてはやってられないが、あまりに無頓着なのもどうなのだろうという、なんだろう。
加減。
先日に続いてチェスタトンを持ち出すが、絵画の本質は額縁であり、その加減である。
自由の本質はその制約のあり方だ。
そして加減の価値基準は、一個人の現在のなかには決して芽生えてこない。
そこに自分を探しても、決して見つからない。
なぜならニンゲンは言葉を使う動物であり。
言葉は情報であり。
情報は決して未来からは届かず、過去からのみ届くものであり。
未来にしか届かないものであり。
その膨大な蓄積のなかで育まれるものであるから。
我々にできることは、それを適時に代謝させること。
してその取捨の選択もまた、過去に見習うしかないということ。
自立、などという幻想は、それらに立たされているという他力を了解してこそ達成される。
☾☀闇生☆☽
追伸。
食べたいから食べたい時に食べる。
それもまた神との一対一の関係であるがゆえの規律のなかでのことだ。
ただちにそれが「糞したいから、したいときに、あたりかまわずにする」とはならないわけで。
結局、その縛りの部分を確認することが大切なのだ。
よそんちを気にする、という好奇心それ自体に善悪は無い。