現場の事務所のテレビで見かけたのだが。
 タレントのYouが、恋愛観みたいなものを語っていて。
 曰く、異性の前ではたぶん今後一生自分を解き放てない。
 それより同性の友だちとか「おかまちゃん」とつるんでいるほうが楽だし、
 気兼ねないし、


「そうそうそう」


 という深い共感もしあえる……云々。
 けれど異性の前ではどうしたってどこか構えてしまって、本当の自分を晒せない……云々。
 たとえ相手の考えに「違う」と思っても言い出せないことがあるだろうと。
 これはおそらくは特に同性に共感をよぶ考えかたなのだと思ふ。
 んが、
 思うに、
 そう考えること自体、異性とは共感や、わたくしの解放や、わかりあえることが目標だと思いこんでしまっていることではないのかなと。
 はたして本当にそれがゴールなのだろうか。
 かっこをつけずに「おふろに素っ裸でどぼーんっ」てできる関係のみが、異性の役割なのだろうか。
 いや同性であっても。
 あたしゃ価値観の共有や共感やわかり合うなんてことも、より具体的に突きつめていけばあり得ないと思っている。


 ニンゲンは所詮、わかり合えない。


 抽象的なレベルにとどめておけば、あるいは良き誤解や錯覚のもとにそんな関係性はつくれるのだろう。
 相違は具体化が生み。
 共通は抽象化に依っているのだから。
 欲深く一体感を追求すれば、そりゃあ個体がちがうのだから、ずれるさ。
 突きつめれば、突きつめるほどにずれていく。
 そいつが「なぜわかってくれないのだろう」といった悲嘆を呼ぶのね。
 それはもうね、円周率の最終ケタを追求しつづけるようなね、なんだろうか、
 不毛。
 下世話なたとえをすれば、同じ『お笑い』好き同志でも、お気に入りのコンビはちがう。
 たとえそれが同じであっても、好きなネタはちがう。
 どの日の出来を良しとするかもちがう。
 それも同じであっても、笑うポイントはちがう。
 それさえ同じであっても、間の好みはちがう。
 ボケとツッコミのどちらが好きかもちがう。
 そのどこが好きかもちがう。
 そのコンビについて知っている情報もちがう。
 『笑い』に関してさえそれだけの難関があるのに、生活や人生や、趣味や音楽などといったらそうとうな『ちがい』が出てくることでしょう。
 むしろ関係とは、ちがいの蓄積と言ってもいいくらい。
 ところがこの共感の具体化の査定基準を、無意識に下げていることが間々あるもので。
 とりわけ関係があさいうち。
 相手が異文化の人だとか。
 あるいはつかの間日常から離れた旅先とか。
 知らず知らずに抽象化して、わかり合えたという錯覚をする。
 したがる。
 ピントをゆるめたがゆえの共感だ。
 だもんで、本当のわたくしの開放や、共感をしたければ、自室で素っ裸になって鏡を相手にしゃべっていればよい訳よ。


 ちがいを認める。
 わかり合えなさをわかり合うことによってしか、関係性は築けない。


 「裸の付き合い」などと俗に言ふ。
 けれど、そればかりでは退屈するぜ?
 フォーマルとカジュアル。その間に何十通りもの緊張の度合いや緩急あってこその「裸の付き合い」ではないのかね?
 笑いとは「緊張の緩和状態である」とは桂枝雀のお言葉。
 笑いを幸福感と換言すれば、おかまちゃんたちとの「がはははは」な関係も、日常の緩急さまざまな緊張関係がきっと貢献しているのであーる。





 理解は求めるものぢゃない。
 するものだ。







 ☾☀闇生☆☽


 追記。
 世界はたかだか脳でしか認識できないのならば、それは外ではなく己の内側ということだ。
 清濁併せ持っているこの世界は、自分の心のありようそのものなのである。
 あいつもこいつも、嫌な奴もいい奴も、みんなみんな自分のなかの住人なのである。
 して、そんな自分も他人の心の住人なのだ。
 そのいちいちに理解を求めるな。