壁の言の葉

unlucky hero your key


 鼻風邪を引いた。
 朝風呂のあと、そのほとぼりが冷めるまでとまっぱのままネットを見ていたのがまずかった。
 昼前にぶらりと新宿に出たときにはハンカチが手放せなくなってしまった次第。
 それでもまあ、あくまで鼻風邪は鼻風邪。というか鼻炎である。
 しとどに出てくる。
 んが、
 そいつをおさえおさえて、ブックオブにて渉猟を敢行した闇生であった。
 定番だが一応は手許においておきたいと思いつつ、ついつい買いそびれていたD.フィンチャーの『セブン』。
 原発事故で国土を失った日本を、なんと震災の十年前に予見して書き下ろしていた勝谷誠彦の『ディアスポラ』。やっとめっけ。
 それから買ったつもりでいて何年もほったらかしにしていたRadioheadの1st『Pablo HONEY』。


 鼻水たらたら。
 気持ちはほくほく。


 ま、今回の未知へのチャレンジは勝谷の単行本のみなので、堅実といえば堅実である。
 さあて後半戦は腹ごしらえのあとにと、いまだ一度も利用したことが無かった『東京チカラめし』に立ち寄った。


 並 焼肉カレー。


 食券を渡し、卓上のレモン水で束の間喉を潤す。
 周囲の客は食い入るようにスマホを注視。
 して、ついでのように飯を食っている。
 店員の全員が中国語でやりとりしている。
 作業の合間合間に交わされては笑いへと解決されていく言葉たち。
 あてずっぽうで笑って頷いてやったら、びっくりするだろうか。
 うけるうける〜的な。
 やめてやめて、腹いてえええ的な。
 などと思ううちに焼肉カレーのご登場だ。
 嗚呼、ここもかよ。
 と軽い落胆を覚えたのは、あのやたら直径が大きく、かつ底のあさ〜い皿についてである。
 こんな食券式の店にまではびこってきたのである。
 あたしゃ食通ではないし、テーブルマナーにも疎いのだが、このあさ〜いカレー皿についてはひと言言いたい。
 あれって本場インド式に、手で食べるための浅さであり、皿の広さではないのかと。
 併せて出されたスプーンですくうための形状ではないよねえ?
 ニッポンの『カレーライス』のためではないよねえ?
 とりわけ最後のひとすくい。
 ご飯の一粒が難儀するのだな。
 スプーンの先っちょでさんざん皿の上をおっかけまわして、挙句断念しかけるほどだ。
 せめて縁だけでももっと鋭角に屹立させてはくれまいか。
 追われて逃げ惑う飯粒どもの前に立ちはだかる、アジアの壁であってはくれまいか。
 インド式を方便として、単に量を多く見せているようにしか思えてならないのである。

 
 そこで思い出したことがある。
 その昔『洋食』というものがちょっと余所行きの、新しかった響きをもっていた頃。
 問題は、ナイフとフォークでいかにしてご飯を食べるかであったと推察する。
 なんせ洋食というものは『ご飯』が主役なのであって、本場ではどうだとかは二の次でなのある。
 ご飯があって、ハンバーグがあり。
 ご飯があってこそ、ステーキがある。
 君が居て、僕がいる。
 海の向こうにかぶれるのではなく、日本式にアレンジしてしまう。
 クリスマスもバレンタインもそうやって吸収してしまう底なしのおおらかさ。言い換えれば節操無しが我が国の国柄のひとつだ。
 ステーキが主食で、副食・副菜としてパンやサラダがあるのではないのね。
 それはいいとして、ナイフとフォークの件だ。
 こいつでもってステーキをやっつけ、
 しかるのちにご飯を喰らい、と。
 その度にいちいち箸に持ち替えるのもアレだし、と当時の日本人が考えたのがフォークの『背』にナイフでご飯をよそうというやつ。
 しかししばらくしてこれがダサい、という風潮になったのだな。
 なぜだろう。本場では誰もやらねえよというところだろうか。
 確かに美醜はもとより正直食べにくいし、口に入る直前でぽろりと落としたりするのである。
 初デートでやらかしかねない警戒レベルなのであーる。
 飯ごときになにゆえこれほどまで運動神経を費やさねばならぬのか。
 なのであれは無いな、とつねづねあたくしも思っていたのだが、先日目からうろこの解釈を尊敬する肥満漢の先輩に教えられることにあいなったのであーる。
 曰く、


 箸やスプーンに持ち替えるのもめんどくさいじゃん。


 曰く、


 で、フォークをひっくり返して『腹』を上にするのも面倒でしょ。



 そしてこう結論付けたものである。
「でもフォークの背に盛る式ならば、ステーキをやっつけたフォームのままに飯が食える」と。
 ステーキ皿からライス皿へ手首を返さずに平行移動だけですむじゃんかと。
 手を常に伏せている状態。
 ほらほら、無駄なカロリーを消費しなくていいじゃんかと。
 とどのつまり、


 その方がめんどくさくない。


 どうだろう。
 人生最大最強の敵「めんどくさい」を実にさわやかに、屈託なくスルーしてしまう肥満漢の論理。
 あたしゃただただ圧倒され、奇妙な尊敬の念を抱かずにはおられなかった。
 なにゆえ山に登るのかと問われて「その方がめんどくさくないから」とは、さすがの冒険家たちも思い浮かばないだろう。
 ある種のめんどくささの先にしかないものを求めるからこそではなかったか。
 生きるとは「めんどくさい」のである。
 そこへきて生命の根源の食について「めんどくさくない」という選択肢。
 すげえ。
 ただただすげえ。
 古よりヒトはみな食のためならと、どんな「めんどくさい」も乗り越え、争い、獲得してきた。
 煮たり焼いたり蒸したり茹でたり燻したり。
 味付けを変え、
 食べ方を変え、
 食器にまでこだわって、
 挙句、食の装束にまでバリエーションを愉しむという「めんどくささ」を選んできた。
 性欲もまた然りだ。
 なのにそこへきてこうだもの。
 悟りひらいちゃってるんじゃねえかと。
 寝ているときも酒を点滴してほしいとのたまった赤塚不二夫に勝るとも劣らない痛快っぷりである。
 そうだ。本来はこう行きたいものなのだ。
 いや、行こうぢゃないか。


 なにゆえそうまでして生きるのですか?
 闘うのですか?
 働くのですか?
 モノを作りつづけるのですか?




「その方がめんどくさくないから」




 鼻汁。
 夜になって嫌な色彩を帯びてきた。
 頭痛もしてきている。
 嗚呼、
 めんどくさい。
 こんなもんさっさと治しちまうほうが、よっぽどめんどくさくない。

 




 追伸。
 ファストフード式の一膳飯屋チェーン。
 カレーすら味噌汁をサービスするのがいつの間にか定番になってます。
 でもあれ、ほんとにほんとにあってます? カレーに。
 味覚問題として。
 いやいただきますけどね。けど、けど、どうなんでしょ。
 んでもってやはり戸惑うのだ。
 あの、具と呼ぶのもおこがましいほどオマケもいいとこのインスタントの具のために、わざわざ箸をおろすのかと。
 といってカレーに使ったスプーンで味噌汁をいただくのもしっくりいった気がしない。
 ならばあれを『味噌スープ』と解釈すればよいのだろう。
 けれど、ならばお椀ではいかんと思うのね。
 スプーン入れっぱなしに放置できるバランスではないのだし。
 


 ☾☀闇生☆☽