予定していた休日が繰り上げになってしまった。
月曜のはずが、土曜に。
平日を休みとするのがあたりまえとなっていた我が半生であるからして、おおいに戸惑ってしまうことになる。
またニヒル牛にでも覗きに行くかと思った。
前回、なにげに手に取った手製本が、頭にこびりついているのだ。
ひたすら自分のうんこの写真を撮り続けた記録だった。
いや、
正しく言おう。
ツイッターでのそらぞらしいやりとりに心の底から吐き気をもよおした著者が、その憤怒を己のうんこに託し、ひりだして、撮影して、文字通り「くそったれ」とばかしに返信だかリツイートしまくった記録本だ。
すいーつ。なう。
にうんこだ。
感動しました、にうんこだ。
いいね、にもうんこだ。
目クソ鼻くそで上等だと、そのことごとくを問答無用に道連れにしていく。
んで、詩人だという。
ようするに詩人が全力で言葉を否定している。
いや、しようとあがいている。
なんと真摯な創作態度だろう。
えらいカロリーである。
ポテンシャルである。
やっていることの是非は別として、この、糞懣やるかたなしの苛立ちこそが、若さであり。
創造の起爆剤ではないのか。
ただ方向を見定めないと、うんこはただのうんことして黙殺されるに違いない。
いや、
「見定める」だなんて計算が働くような賢しらに冷めた態度にこそ、うんこなのか。
しかしながらそもそもこの、どうしようもない衝動にかられて他人に突きつけたくなったうんこを、命がけで言葉に変えるのが詩人だろう。小説家だろう。歌人であり。ロックンローラーだ。
うんこを言葉に。
命がけで。
憎悪を糧にしてでも。
重要なのは、言葉には人を不快にする力もあるという点だ。
でそのパワーは、うんこをも軽々と超える。
小林秀雄が歌人本居宣長を解説した『言葉』にこんなくだりがある。
哀しみというつかみどころのない現象に対して、これに形をつけようと、身体は涙を求める。
同時にその精神は、言葉を求める。
身体は涙を。その心は言葉を。
よって歌とは礼であるという。
喪を哭するのにわざわざ回りっくどい礼というものがあるのも、これと同じで。
なにもルールやマナーを遵守して哀しめというのではない。
秩序なく咆哮し、ただ泣いているだけでは、哀しみを分かち合うことができないのだ。
なぜなら他者にその哀しみを伝え、より深く感じてもらうことができないからで。
ニンゲン、哀しみのなかにあって喜びを手にすることは難しい。
んが、少なくとも哀しみを「ととのえる」ことは、できる。
哀しみに形を与えてやることができる。
哀しみのなかにあって哀しみを救う工夫。それ即ち一種の「歌」である。
うんこを言葉に。
その先で彼のうんこがどう言葉になっていくのか、
言葉にしていくのか、
ちょっとばかし見届けたい気がしている。
少なくともそこには、レンタルボックスを利用して、そこから他者にむけて何事か働きかけずにはおられない何事かが蠢いているわけであり。
その内なる怪物は、さらなる言葉を欲しているはずなのだ。
筒井康隆の短編に『読者罵倒』というのがある。
タイトル通り、読者への怒涛の批判、中傷でつらぬかれている。
圧巻なのがその圧倒的な技術と語彙の量だ。
突き抜けている。
言わずもがな、ふだんネットで見かける稚拙なソレとは、品質が違う。
プロのうんことはこれだというお手本なのであーる。
☾☀闇生☆☽
追伸。
などと、つらつら思いつつ、先週買いそびれた本を求めて神保町に。
懐かしい『中華そば』と大書された暖簾をくぐってみれば、御品書きには『ラーメン』と。
そこは店主、中華そばで統一しようよ。
ね。