壁の言の葉

unlucky hero your key


 国沢☆実 作・演出
 劇団玉の湯 第十二回公演『血だまりより愛をこめて』
 新宿・サニーサイドシアターにて





 混沌としていた。
 と言えば聞こえはいい。
 が、実のところ混乱していたといった方がいい。
 もしくはパニクッていたと。
 それは作・演出の国沢☆実が自らパンフレットのなかで認めていることで。
 そこにあらわとなった矛盾や混乱に翻弄される役者たちの困惑すらもが『私』なのだとのことである。
 とはいえ哀しいかな観客というものは、そこに生々しい私小説なんぞを期待してはくれない。
 どころか、作者や演者の自意識を煙たがる。
 やるなら少なくとも『私』を『芸』として昇華し、商品化すべきなのだ。
 談志のように。
 ただし知名度の無い芝居でそれをやるのは至難の業だが。
 よって、あたしには単に『未熟』であるとしか見えなかった。
 言わずもがな、膨大な可能性を留保とした、という意味においての未・熟である。


 国沢☆実という演出家は、ピンク映画でならした知る人ぞ知る奇才監督だという。
 しかし舞台を演出するのは三度目だという。
 その前情報があったからなのだろう。あたしには「主に映画畑のヒキダシで演劇を作っている」ように見えてしまった。
 この人。はたして演劇の神様のまえにひれ伏したことがあるのだろうか。
 演劇的うまみといおうか、
 演劇ならではの要素といおうか、
 そのへんのツボが見事に外されているのである。


 自衛隊と平和ボケの国民。
 原発事故と避難地域内に住む人々。
 ドメスティックバイオレンス自傷癖・リストカット
 老人介護。
 などなど、本編には『今』を象徴する要素があれもこれもと取り入れられている。
 けれど、なぜだろう。『今』を感じないのは。
 それぞれが独立したパーツで、
 せいぜいがパッチワークのようで、ひと繋がりの芝居として消化されていないのだ。
 しかもそれぞれのパーツ自体がありきたりで、熟されていない。
 生煮えだ。
 ただし、
 犯罪者たちが避難地域に逃げ込んでコミュニティを形成しているという設定には、可能性があると思った。
 殺人犯たちが疑似家族となって自給自足をしているのである。
 むしろこの設定をメインに据えるべきではなかったのか。
 物語は、記憶喪失の主人公が、上官を射殺して自衛隊を脱走してきたという過去を思い出す流れである。
 そこで時間を費やすよりは、はじめからこの設定をさらした方がいい。
 家族だと思っていた人たちが実は疑似家族だと知れるくだりも、そもそも隠す必然性がわからない。
 殺人犯たちが額に汗して畑を耕したり、乳牛の乳を絞ったりしている生活の方がずっとずっと面白味があると思う。
 なぜなら、きっとそんな悪の巣窟でも倫理観や道徳やルールといったものが少なからず必要になり、作られてゆくはずだから。

 
 やがて、
 この避難地域に逃げ込んだ犯罪者たちを抹殺しようと、ついには自衛隊の特殊部隊が包囲する事態になる。
 彼らは放射能防護服に身を包み、戦車まで出動させて住人に投降を呼びかける。
 しかしそれに応じた住人は、出るなりひとりずつ射殺されてしまうはめに。
 この抹殺の事実も、国民には伏せられるとのことだった。
 ならば、村ごと焼き払えばいいのではないのか。
 あるいは、どうせ住めない地域なのだ。完全に隔離してしまえばいい。
 戦車まで出動しておいて、ひとりずつ拳銃でパンパン撃っているのは何なのか。


 なんなんだろう。


 全体に緩急のリズム感が乏しかった。
 確かにドタバタとシリアスを行き来してはいる。
 してはいるのだが、
 このふたつの要素それぞれの振り幅の効きが浅いために、いかんせんメリハリが無い。
 場面も密室に固定されたままで、変化に乏しい。
 ならば『十二人の怒れる男たち』よろしく観客の想像力を利用した回想シーンなどで遊んでくれないと、目が退屈してしまう。
 映像技術がすすんで視覚的リアリティに富む映画があたりまえとなった昨今、演劇でのリアリティは役割をかえている。
 セットや衣装を本物さながらにつくったところで、実写にはかなわない。
 ならばパイプ椅子が玉座に、ベンチに、はたまた馬に、犬に、盾に、手枷に姿をかえるよう観客の想像力を利用できるのが演劇というものだ。
 ジャージが紋付き袴に、ドレスに、宇宙服にと、所作ひとつでころころ変身できるのが強みだ。
 低予算演劇ならなおのことである。
 音的要素も少なかった。


 舞台空間について。
 客席がぎゅうぎゅうにつめて三十席あまりの小屋である。
 新宿の古き良きいかがわしさ満点の秘密空間である。
 そのこぢんまりとした劇場の舞台。背景はしみったれた襖。
 割烹着のおかあさんがいそいそと家事をこなす、そこは紛れもない昭和であった。
 そのせまい空間の大半を、寝たきり老人のベッドとちゃぶ台が占拠している。
 このふたつが、まるで活かされていない。
 ちゃぶ台は、お立ち台よろしくミニ舞台になりはするが。
 ベッドは最後までベッドのままで、邪魔なままだ。
 遮蔽物の衝立のように使って、部屋の左右から撃ちあうとか。
 すれば部屋の横幅の省略線にもできたのではないのか。ワイプのように。
 家族内に派閥が生じて敵対関係になったり。またそこに裏切りができたり。
 部屋をぶった切るだけで関係性が変わってくるものだ。


 客席。
 文字通りの肩寄せ合うといった風情。
 あたくしの右隣の女性は終始泣きっぱなしだったし。
 反面、左隣の男性は笑いっぱなしであった。
 そこにこの芝居のかかえた混沌があらわれていたと思う。
 なにより客と演者のホットな関係は、ひしひしと。


 次回作への課題は山ほどある。
 課題。それは可能性とも言うよ。




 ☾☀闇生☆☽