立川談志の『野ざらし』のマクラに、ちょっとしたシモネタがある。
そのむかし馬鹿の番付なるものがありまして。
西の横綱が、醤油を三升飲んで死んだ奴だってえんですな。
それに対して東を張るのがなんと釣りをする奴だという……。
うろ覚えだが。
釣りを題材としたこの噺。釣り竿のサオにかけてさらりとくすぐる個所がある。
このくだりについて談志は『現代落語論』のなかでこんなふうに触れている。
この「さらり」がいいんだと。
客席でそれに気付いた何人かがクスリと笑う程度がいいんであって、気付かなかった人のために執拗に強調してはいけないと。
無論、笑い待ちをするなんてのは野暮天なのに違いない。
そこで連想したのが桂枝雀の『緊張と緩和』理論という笑いの仕組みについての講釈だ。
ここでは落語のオチを大きく四つに分類し、さらにそれぞれを細かく仕分けしていて。
それらの前提が、笑いとは緊張から緩和への流れが作るのだというもの。
そのなかには「ほっとする」ことによる笑いや、「なるほど」という腑に落ちる笑いなどもあって、実にさまざま。
とどのつまり笑いにも強弱、大小、濃薄、色彩がさまざまにあると。
それこそ爆笑かスベリかという二極化したテレビ的笑いだけが笑いではないということを教えられる。
とまあ、これらをエロに携わる身として鑑みるに、思うのだ。
AVが扱うエロもまた、観客を一面的な大味趣向にしてしまった罪があるなあと。
多かれ少なかれね。
ここは有体に言っておこう。「教育してしまった」と。
細分化という多層性でその単純化をおぎなっているかに見えて、その実、それぞれはそれぞれに大味だ。
マクドナルドだ。
どんだけメニューが増えようが、マクドナルドはマクドナルドだ。
あれはあれで旨いけれど、世界があれのみではつまんねえ。といったところかな。
談志の「さらり」の粋も、テレビを通せば「すべった」となってしまう。
☾☀闇生☆☽