壁の言の葉

unlucky hero your key


「ファビッ」


 そう子供を叱る声ばかりが、耳に残っている。
 むろん、怒ってるんじゃないのね。
 言わずもがなですが。
 しつけてる。
 きびしく。
 で、
 そのお子さまふたりはといえば、
 すこしもそれに臆することなく、
 屈託もなく。
 ましてや、
 旦那が遠征やらで家を離れることが多いから、
 育児の比重はずしりと、のしかかってきていたはずで。
 なんか、いつも急いでた。


 んもう、
 やんなっちゃうのっ。


 つかの間あきらめたように笑い、
 ひと息ついて、
 また足早に店を去っていく。


 大げさにいえば嵐が去ったような。
 

 思えばJリーグが発足し、
 それがブームとなり。
 アジアカップ優勝、
 ドーハ、といった日本サッカー界の怒涛の時代を、
 もっとも有名、有力な選手の妻としてささえ、
 その家族を守ったのだから、
 人生そのものが嵐のようであったであろう。
 とはいえリオのカーニバルのような、
 それはとびきり陽気な嵐だったはずだが。


 幸運にも、
 ちょうどその期間なのである。
 あたくし闇生が勤めていたビデオ屋を、
 毎日のようにご利用くださっていたのは。
 

 常日頃は気を張っている方だったが、
 ときに、ゆるゆるになられるときがあるらしく。
 いやリラックスと言い直すべきだな。
 それは旦那さんとご来店されるときだ。
 露骨に、目じりが下がっているのだ。
 もお夫婦して、下がっているのね。
 夜のハットトリックだの、
 Wハットトリックだのと、
 自らの若気のいたりを店員相手に吹聴する有名Jリーガーを、


「ばか」


 と、見守るその妻。
 奥さんに聞えてますよ。
 とあたしらが注意すると、
 だいじょうぶ。証拠はない。
 そう強がるくせに、
 後ろからウエストを抱き肩にアゴをのせて妻に甘えるフィールドのライオン。
 もとい旦那。
 

「ばか」


 ごちそうさまっす。

 
「最近、うちのひとAV借りてる?」


 あるとき唐突にそう訊かれ、
 しどろもどろになっていると、
「かっこつけてないで、前みたいに借りればいいのに。ねえ」
 Jリーグで顔が知れてからというもの、
 ぞろぞろと見知らぬ子供たちがあとをつける事態になっていて。
 そんなのを引き連れて来店されたこともあったし。
 ましてや、逃げも隠れもしない人であるわけだからして。
 家で旦那がリラックスできているかどうか。
 そればかりを気にかけている発言も、ちょいちょい聞いた。
 なんせ旦那さんはあの性分である。
 大事な試合や、
 代表戦の前後はオーラからしてコワイことになっていただろうに。


 初めてお目にかかったとき、
 焼けた肌で、
 当時の日本人としては派手目で、
 サングラスで高級車を乗り回し、
 ツンとしている。
 ……ように見えたっけ。
 けれど、
 なんだろ。
 実際は、
 古き良き、ちゃきちゃきの江戸っ子のような、
 芯の強い、
 そんなお人だった。
 思えばカリオカ(リオっ子)と呼ばれた男の妻である。
 そんな気風なくして、つとまるはずもないのだ。


 旦那と結婚するために、
 してその家族との意思疎通をふまえて、
 夫の祖国の公用語であるところのポルトガル語を、
 わずか数カ月で会得した話など、有名です。
 そこに、すべて現れている気すらします。
 


 初音。
 旦那の腕には漢字でそう妻の名が彫ってあったよ。







 ご冥福をお祈りします。


 ☾☀闇生☆☽