もののけ姫が地上波で放映されたのって、
先月でした?
いや今月?
んなことくらいてめえで調べろって話ですが。
その放映スケジュールを知ったとき、
なんて露骨なんだ、と思った方は少なくないはず。
だって、
この時期にぶつけてくるということは、アレでございましょ。
まぎれもなく原発のアレを意識してのことでございましょ?
近代合理主義の恩恵にあずかるタタラ場vs、
神秘主義、自然主義の森と神々という解釈があの映画においてはベタであるということは、すでに述べちまったのだが。
んで、
その歪みとして、タタリ神が生まれ。
それは汚染やら、
自然破壊やらをあらわしてもいて。
それまで隠れ里で慎ましやかに暮らしていたアシタカが受けてしまった呪いというのは、いわば直接的、個人的にはいわれのない代物であるにもかかわらず、
なのに、
なのに、
ひっかぶると。
なんで俺がこんな目に。
さながら、次世代の子供ではないか。
だからといってアシタカは、
便利で合理的なタタラ場が象徴するような生活を否定はしないのだな。
うむ。
つくっちまった技術や、
味わってしまった楽チンを、
はなから無かったことにできるほど、人間は賢く生きられないことを知ってもいる。
みんなそこで働くことに生きがいを見出してんだもの。
生きがいを捨ててまで、いまさら森には住めっこないっつの。
じゃあ森なんか焼き払っちまえ、というのともやはり違って。
行ってみりゃ急進的、享楽的な近代化にはおさらばして。
せめて漸進的に、
その都度、思考し、交渉し、
泣いて、笑って、喧嘩して〜♪
サンや神々に頭を下げつつ、
森の資源をすこしずつ分けてもらいながら、
ときには侵しながら生きていこうじゃねえかと。
そのあたりの後日談は、監督自身の発言によりますが。
タタラ場の社会・共同体も、
して森も、
結局のところ、ともに物語のなかに残したところからすれば、
そういうワキマエのなかにしか、未来はないと睨んだのにちがいないのだぞと、
あたしゃ睨んだ。
ま。
ベタですが。
あの、アシタカの西への旅は、
実は過去への旅なのね。
元凶はなんじゃらほい、と見極めるための。
そうと踏まえれば、
ここまできてデモひとつ、
暴動ひとつ起こせない。
そんなあたしたちである。
こんな時代を後世は、
つまり未来からたどり着いたアシタカは、どう評価するのでしょーかと。
残念ながら、他人事民主主義なのは間違いなさそうで。
んで、
そんな特異な冷静さが、
震災によるパニックを最小限に抑えているのも事実なわけでもあり。
ならばせめて、
たとえ娯楽であっても、生活や社会と関連付けて、
しぶとく、
ずぶとく、
想像していこうじゃないのよ。
とっかかりは意識することから。
ということです。
☾☀闇生☆☽
さしあたっては、
さまよえるタタリ神を鎮めんことには、
にっちもさっちもいかんよね。