どうなんだ。
はたして画面の六分の一
九分の一も使ってすることなのだろうか。
地デシ化へのカウントダウンて。
さながら津波警報か、
宇宙戦艦ヤマトの地球滅亡テロップなみの大騒ぎでなのあーる。
そのせいで字幕が隠れてしまって、読めない。
普段は音声を切っているあたしとしては、これが迷惑至極で。
というわけでも、なかった。
うざいから電源からして切りっぱなしにしてやったのだ。
ざまみろ。
はからずも節電放置プレイであーる。
そもそもあわててテレビを買いに行く必要性を感じるほどの番組も、見当たらないのだし。
それが買い換えない最大の理由だったりするわけで。
はい。
そうなのです。
何を隠そう、
ナニを隠そう、
あたしんとこはいまだにアナログなのでございますよと。
たとえ一日、
一週間、
いや一ヶ月テレビが観られなかったからといって、なんの不自由があるだろう。
かえって時間にゆとりがうまれてしまうことが、バレてしまうほどで。
ならばいっそテレビよりまずラジオを買い換えるべきではと思うのだ。
ながらメディアとも呼ばれるラジオの方が、時間を有効に使えるわけであり。
そうはいってもラジオもバラエティー一色塗りになりつつあるので、大方がうるさいのばかりなんですがね。
子供の頃、
NHK-FMで放送していたSFもののラジオドラマが好きだった。
不時着した宇宙船を捜して、百万年の雨季のさなかにある惑星を冒険したものだ。
その体験をもとに、
想像力にまさるヴァーチャルはないと、のちのちになって確信した。
思うに、
テレビがつまらなくなったのは、視聴者に媚びすぎたからではないのか。
想像という労力を使わせないようにして。
言い換えれば、描写の一切が説明に終始するようになった。
だとするならば、もはやそれは演出とは呼べまいて。
視聴者というものは、
おしなべて自分が何に興奮し、感動するのかを自覚しようとはしない。
すくなくとも具体的な探求まではしない。
できない。
であるのに、
悲しいかなテレビはその無自覚な視聴者の御用聞きに成り下がってしまったのだ。
たとえば、
視聴者は意外性をむさぼる。
と知るや、
御用聞きは刹那的・刺激的なものを提供する。
まずそれ自体に意外性がないと。
M男の注文を忠実にこなしてしまうアルバイトの女王様という、残念な構図になっている。
いかんせんその程度の意外性ありきで作られた番組というものは揮発性が高いだけで、必然的に内実とぼしく飽きられやすいと。
チェーンジ!!
そもそも意外性という感想が、無自覚発信のものだからして、作り手側が真に受けてはいけないものではないのか。
意外性と叫んだその同じ口で、
こんどは刺激が強すぎるとのたまうのが、客である。
大衆である。
不幸の渦中にある芸人に同情し、
涙し、
応援もするくせに、
同時に彼の芸に対して、今後は神妙に対峙するという。
商売あがったりだ。
視聴者はものぐさだ。
なんせめんどくさがりだ。
面白い番組と、
楽に観ていられる番組とは違うはずだが、普段は楽を好む。
想像という労力を惜しんで、
動揺を恐れ、
わたくしのためになる情報と、
ささやかな優越感とを、
ときに気分としての反体制的うっぷん晴らしを、
現状への八つ当たりを、
当たり障りの無い至れり尽くせりで、享受しようとする。
成そうとする。
慣れ親しんだマンガの実写版を、
ただそれっぽっちの親近感だけをたよりに、なんとなーく、観てしまう。
んなことでは、
ときめくわけがない。
ガキ使がフリートークをやらなくなった今となっては、
しいて言えば、
演劇の中継と。
あと、近いところではYMOの先日のアメリカ公演とか。
そんなところかな、観たいのは。
だもんで、
近いうちに買い替えはするのだろうが、
うん。
なんだかなあ、なのだ。
☾☀闇生☆☽
そういう意味で、
「お客さまは神さま」なのです。
唯一絶対神としての神ではなく、
座敷わらしのような、ね。