なんだかんだで洟かんだ、
というわけで、結局は見てしまった『すべらない話』なのではあるが。
うん。
闇生には愉しめました。
野暮をかますようであいすまんが、
何度も言うように『すべらない話』とは、
それすなわち「うける話」という訳ではないのね。
わかります?
うける話なら、演者が車座になることはないのだし。
ひとりずつステージにあがってトークすれば良いわけ。
かといって、あれは座談でもないのだが。
あの場でのパス回し。
すべらせない。
そこね。
そこが楽しみのひとつでもあるわけで。
だもんでどの話が一番面白かったか、
というその一点だけに注目すると、もったいない。
展開の多い話のあとに、
さながらワンタッチ・パスのごとくさらりと次の人につなぐ試合巧者が居たりして。
(むろん順番は編集されてもいるのでしょうが。)
そういうひとつの流れとして見渡すと、よろしいかと。
リアクションも重要でね。
車座でのトークの場合、
聞き手の表情もまたその話の一部になるわけであり。
背景であり。
おざなりのリアクションで話を受けながら、頭の中で自分のトークをおさらいしているらしい河本の心ここにあらず顔とか。
おまえらちゃんと聞いてんねやろな、
とばかりに一同の聞き顔をいちいち睨みまわすキム兄。
(キム兄はいつも話し手ではなく聞き手の表情を見ている)
若手はと言えば、感想を入れるタイミングを推し量っているし。
ありきたりのツッコミで笑わせるのは、あの場では無粋ですから。
といってオチへの説明的なコメントは、蛇足だし。
神経つかうわけです。
そうそう。
ほっしゃんのネタがもとでブログが炎上したとか、
しないとか。
カレーの鍋で級友のメガネを煮込んだ話ね。
それを指して、あれはイジメであって、云々かんぬん。
いかんぬんかんぬん。
まあ、
その判断はここでは置こうか。
いや置くまいか。
ただね、
顔を晒してイジメをネタにしたたったひとりのお笑い芸人を相手に、
顔の見えない大多数の匿名者が、
大まじめに、
よってたかってまつりあげるという。
そのイジメの構図には興味を持った。
あたくし的には、すべらなかった。
ま、
ホントに炎上しているかどうか、確かめたわけじゃないですけどね。
少なくともね、
メガネを煮込まれた人の言いぶんすら確かめずに、
一方のみの証言、
それもネタとして構築した話芸だけをたよりにまつりあげる行為に、
ナイーブかつ硬直した空気と、
あまりの無鉄砲さは感じました。
例のセイシンテキクツーというやつを、あたしゃ感じましたよ。
ええ。感じましたとも。
どうです。
怖いですねえ。
こんな風潮の上に、裁判員制度が執り行われているのかと思うと。
ね。
多数派が、
もとい大衆民主主義が相手じゃ、
ビンラディンもいじめっこもかなわないのであーる。
松本人志がかつてその著書でイジメの問題を取り扱っていた。
逆転の発想で、
むしろノリツッコミで笑いをとれと。
ボケろと。
知恵をしぼれと。
んで人気で逆転して見返したれと。
ともかく、
社会というものは、とかくあれでね。
複雑で理不尽で絶対的なイジメが幅を利かす世界で。
たとえば、
お客さまという、気分屋で身勝手で絶対的な大多数派がいたり。
職場での権力関係やら、
頭のよろしくない施政やら、
投票やら、
景気やら、
法律やら、
因習やら、
ひいきのバンドの解散から、
逃れようのない老化まで。
世界情勢ひっくるめて、
からみあって形を変えて、のっぴきならないイジメとして作用してくる。
そんな風にできている。
んで、
それらは不平を言ってればどうにかなるものでもないのね。
解釈を変えたり、
対抗したり、
和解したりして、
やりくりしていかんといかんの。
だもんでね、
そんなナイーブなまま社会に出てきたりしたら、あれよ。
まいっちゃうよと。
てめえのことは棚に上げて心配してしまう闇生なのであった。
☾☀闇生☆☽