大森立嗣監督・脚本作『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』DVDにて






 ハツリという仕事がある。
 たとえば身近では壁の修復工事などでも使われる言葉で、風化してひび割れたり浮き上がってしまった個所を一旦ハツッテから、補修すると。
 叩いてそこを取り除くために単にタタキとも言う。
 ここ叩いてないじゃん、という具合にだ。
 有体にいえば、壊すということでもあり。
 これが建物の解体現場ならば、ビルを丸ごとハツルことになるわけで。
 となればそれに従事する作業員は日がな一日壊し続けることになる。


 ケンタとジュン。
 ふたりは共に同じ孤児院で兄弟のようにして育った。
 して中学を出てからずっとそのハツリにたずさわっている。
 来る日も来る日も分厚いコンクリートを壊し続ける毎日。
 ケンタには兄が居て、
 数年前に起こした、とある事件がもとで、今は網走の刑務所に収監されている。
 その被害者が職場の先輩であることから、ケンタは毎月カネを巻き上げられているのだ。
 ばかりか、
 ふたりはこの先輩によって日々理不尽なイジメにまであっている。
 学歴もなく。
 家族もなく。
 分厚いコンクリートに囲まれて、
 過酷な労働条件のもと、イジメられる日々。
 ふたりは憂さ晴らしに街へと繰り出し、手当たり次第にナンパを試みる。
 この日、唯一ひっかかたっのが泥酔した女、カヨだった。
 カヨは自分をブスと自覚している。
 それゆえに愛されないと知ってもいるから、見境なしに愛されたがる。
 つまり誰とでもする女なのである。
 ブスで馬鹿でおまけにワキガで、
 なおかつ恥も外聞もないほどの愛されたがり、
 となれば、いわゆる底辺でもがいているケンタたちにとっても、最低の女なのである。
 在る夜、
 出口の見えない閉塞感にさいなまれ、
 得体の知れない怒りに駆られたケンタとジュンは、ついに日常と決別することに。
 自分を閉じ込めてきた職場を破壊して、一路網走を目指すのだった。







 以下、ネタバレで。








 いわずもがな、ロード・ムービーである。
 旅の具体的な目的は、ケンタの兄カズに会いに行くことだ。
 んが、
 彼らの真の目的はここ(日常)からの脱出であり、
 その狭く苦しい日常の破壊の先には、きっと素敵な「俺たちの知らない世界」が待っているはず、としてのことである。
 ケンタはジュンに言う。


「この世には人生を自分で選べる人と、自分では選べない人の二種類しかない」と。


 して自分たちはその選べない方に属するのだ、とも。
 それはさながら愛されないのを自覚するがゆえにかえって愛されたがるカヨのようで、ケンタは自力で人生を掴もうともがくのである。
 そんなケンタにとって兄のカズこそは、ここ(日常)を自力でぶっ壊して新しい世界に行った人間であり。
 自分を縛る社会や倫理や法律をおかし、ここから出て、新しい世界を見ているはずの男なのだ。
 けれど、
 ようやく叶った兄との面会で得た言葉はあまりに空しく。
 そんな世界は「無いよ」と、にべもない。


 思うに、
 ここ、を壊して抜け出した先。本当に本当に自由な世界とは、いったいなんだろう。
 抑圧も差別もしがらみもない世界。
 それはもはや人でなくなるということで、
 つまりが殺人か、死しかないのではないのか。
 ましてや、
 孤児院そだちの彼らの場合、
 はなから血縁のしがらみからは解き放たれている、と考えることもできやしまいか。
 束縛と抱擁は程度の違いであって、
 あるいは解釈の違いでもあろうが、
 であるからこそ、根を切ろう、根を切ろうとする彼らのあがきは、かえって個人を不安定にするばかりでなく、自滅に等しい。
 誰だって皮膚に閉じ込められているだなどとは考えないだろうに。
 現に、
 あれだけ「ここ」を出たがっているくせに「ここ」との接点であるケータイを、彼らは放さない。
 本当に「ここ」をぶっ壊したいのなら、まずは己を繋ぎ止めている、見方を換えれば束縛している、ケータイをこそ捨てるべきだろう。
 敵対する裕也も、
 会社も、
 ばかりかカヨも、ケータイを通じて繋がっているのだから。
 縛りあっているのだから。



 んじゃ、結論をのたまってしまおうか。










 
 要は『自分探し』の映画なのであーる。これは。
 どこかよそにありのままの自分を受け入れてくれるパラダイスがあるはずだと。
 このうだつの上がらない現状は幻で、
 それを強いているこの社会は嘘っぱちで、
 クソで。
 アホで。
 キチガイで。
 てかドッキリで、
 どこかに本当の自分とやらがあるはずと。
 だもんでケンタはジュンに問うのだな。


「お前と俺、違くね?」と。


 これはつまり、女まで分け合う仲だった二人の間に、やっと個性らしきものが芽生え始めている証拠なわけで。
 それは自分とは何かという自問をしてやっと自覚できる概念でもあるのだ。
 しかし、
 その旅の果てに待っていたのは兄の「(そんな世界は)無いよ」という言葉。
 ここ、に出口が無いのではなく、自分探しというある種の騙し絵には出口が無いという。
 実際、無かったよ、という。
 ずはり不毛。
 そういうこった。


 それでも、
 ここ、をぶっ壊した先の新しい世界を目指すというのなら。
 この映画の二人のようにするしかないのだろう。




 その昔、地上のパラダイスを夢見て半島に渡った人たちがいた。
 土地も米もタダだのと、
 なんでもマスコミをあげての一大キャンペーンだったと伝え聞く。
 不幸にもそれにあおられて彼の国へ渡った人たちのその後と。
 してそんな、
 なんと言おうか、ヘルメットとゲバ棒と赤い旗がぱたぱたしちゃった時代背景と。
 連帯とか。
 粛清とか。
 フォークゲリラとか。
 それに端を発する自分探しというキャンペーンとかが、鑑賞中ずっと脳裏にちらついていたが。
 なんのことはない。
 エンドクレジットで岡林信康の『私たちの望むものは』が流れるではないのさ。
 映画が自らネタバレしてどうすんのよ。
 と闇生はちょっち恥ずかしくなっちゃったのでした。


 ヨースケという養護学校で働く男が登場する。
 障害を持ちながらも明るくふるまう生徒たちを指して、彼がケンタたちにこう言うシーンがある。
「こいつらサイコーだろ。けど、みんなほかに行くとこないんだ」
 行くとこがないんじゃなく。
 たとえばこう考えてはどうだ。
 行く必要がないのではないのかと。
 

 鬱憤という名のクソは、哀しいかな下へ下へと吐き出されていく。
 売人のやくざは裕也へ。
 裕也はケンタとジュンへ。
 時にケンタとジュンは、お互いへ。
 そこにもまた彼らの嫌った差別の構造があるのだろうし、つまるところ底辺のはけ口の無さを観客は思い知るのだが。
 それがカヨちゃんとの出会いによって、最終的に更なる『下』を獲得することになる。
 むろん、ふたりはそれを自覚してはいない。
 そうと知ってか、あるいは知らずなのか。捨てられ続けるカヨちゃんの孤独に、じっと思いをはせる一遍。
 愛されなさを自覚するぶん辛うじて彼女だけ、自分が見えているのである。




 泳げないのを川のせいにして、
 海に行ったところで何も変らない。


 一見の価値は、在るよ。




 
 ☾☀闇生☆☽




 余談。
 ケンタ、ジュン、カヨ、裕也の四人が素晴らしい。
 なので、
 ゲスト的な脇役のベテラン陣が、かえって浮いて見えた。
 音楽のギターが、彼らの、血の沸騰するような心象風景をうまく代弁していたと思う。


 裕也がカズにカッターでやられるシーン。
 なんで逃げないのだろう。
 

 カヨちゃんとの船の上での再会と、
 裕也との遭遇。
 どうして出会えたのかを描かないのは、寓話性を高めるためなのか、どうか。
 カヨちゃんの方は、存在自体に寓話性があるからギリだが、
 裕也の方はある程度描いておいた方が、逃れられない「ここ」の閉塞感として活きるし、緊迫感も増すはず。
 

 
 
 
 ケービの仕事柄、
 現場でのイジメはよく目にする。
 やさしさのかけらも無い、聞くに堪えない罵声は当たり前。
 ときに蹴る、殴るもある。
 んが、
 闇生が見るに、大概の場合は教え方がまずいだけである。
 全体の作業効率を10分早めるために3分の段取りが必要ならば、その3分は誰もが待つんだよバーカ。
 と、叱っているのを先日聞いた。
 ならば、
 一か月後、半年後の長期的な効率を考えて、ちゃんと教えればいいのに、と思う。
 ケービの先輩もそうだが、
 始終怒り散らしている人は、大概、教え方や説明がまるで駄目なだけだったりする。
 話の組み立てや喩えがあまりに稚拙だもんで、聴き手の頭のなかで絵にならないのである。
 それで十年も二十年も怒りつづけいる。
 暗黙の了解と専門用語だけで通じるベテラン同士の感覚を基準として、それを新人に求める。
 そりゃ無茶だわ。
 んで、怒るんだものな。
 怒るのも疲れるだろうに。
 あほちんだ。