印象に残ったのは、チャップリンの『スマイル』だ。
 このカヴァーがとりわけよかった。
 いわずもがな、ユーストリームによる細野さんのライヴ中継のことなのです。
 あたくしなんぞが言うのもなんなのですが、
 細野さんの動向というのは、常に目が離せないところがありますよね。
 あったのよ。
 少なくともポピュラー音楽で飯を食っている人たちにとっては、多かれ少なかれ意識の片隅には留めた時期があったはずであると。
 そんな存在なのではないでしょうか。


 次はいったい何をやるの?
 今、何やってるの?

 
 とファンを揺さぶる、
 先読みとそれに伴う変化に富んだかつての目まぐるしい活動もさることながら、
 ニカ系のスケッチショーを経て、
 ある意味原点回帰と解釈されるであろう狭山でのライブから続くある種のゆるさまでが、確信に満ちている。


 たとえば、
 常に最先端を紹介する役割であったにもかかわらず、ここのところの彼のゆるさ加減はいったいぜんたいどうしたことか。
 そう嘆くファンもいるのかもしれない。
 んが、
 あたしゃこう解釈しているのだ。
 音楽家の年齢の重ね方、
 という意味で、先を背中で見せているのではと。
 解りやすく言っちゃうとね、
 下世話なたとえでなんなのですが、
 若い頃に確立した不良キャラだとか、
 それにまつわる音楽以外での武勇伝だとか。
 それこそ革ジャン、リーゼントとか。
 あるいは速弾きだとか、
 完全主義でガチガチの打ち込みだとか。
 美貌だとか、
 アイスモナカな腹筋だとか、
 ぷりっ、としたケツのラインだとか。
 そういうのを還暦過ぎてなお老体に鞭打ってやってるのって、どうよというハナシである。
 ひたすら気持ちの良い音だけを求めてやってきたのに、いつのまにかその歴史が重荷になって。
 そのイメージに苛まれて、
 心のままにとか言うくせに、
 若かりし頃の自己模倣に心血を注ぐハメに。


 それって、
 本当に音楽といえるのか?


 むろん、
 単なる懐メロというリプレイ興行も哀しい。
 老いとの折り合い、という諦観が背中に臭ってしまうことだろう。
 未練があるから諦観が要るようになるのだ。
 けれど、老いてよかったのは「忘れる」ことだ、と彼は言った。
 なるほど未練は記憶の産物ではないか。
 老いとは忘れることだと踏まえたならば、若さに未練などあろうはずもない。
 つまりは諦観も必要としない。
 おそらくはそれが今を楽しむ、真理なのだな。




 とまあ、
 本来はそれこそが『諦観』の意味するところだったりするかと。




 ☾☀闇生☆☽


 ここ数年の談志もまた、その折り合いで格闘していた。