ジョエル・シューマカー監督作『ナンバー23』DVDにて。
ひょんなことから古本屋で手にした自費出版の赤い本。
それは23という数字に取りつかれた男の手記、という体裁の小説であった。
歴史上の重要な事件や人物、身の回りの番地や生年月日まで、ありとあらゆる数字がすべて23に関連することに気付いてしまった男のハナシである。
読んでいくうちにジム・キャリー演じる主人公は、そこに書かれた出来事がすべて自分と重なることに気づく。
おかしい。
やがて本の中では殺人事件が起きるのだが、それが実際の事件と共通していることを知る。
そこで主人公は、本の中身はフィクションではなく著者による実際の殺人の告白であると確信するにいたるのだ。
さて23という数字の意味は何なのか。
著者は、いったい誰なのか。
ま、そんな流れだったと思う。
以下、ネタバレ。
身の回りの数字を足したり、割ったり、ひっくり返したりして23にこじつけ、そこに謎のメッセージを見出すというパラノイド。
その本の狂気に引きずられるように、主人公も23の謎に取りつかれていく。
しかし、いつしか実際の殺人事件の告白であると解明した辺りから、映画は著者探し=犯人捜しといった方向性を持ち始める。
でだ、
重ね重ねもネタバレで恐縮なのだが、
その著者とは他でもない自分であると、ゆくゆく判明するのだな。
とある経緯でかかった記憶喪失が、著書と現在とを隔てていたのである、と。
となると、更なる問題が明確になってきまして。
それはつまり、その殺人の真犯人は自分であるということだ。
現在の自分には妻子があり。平凡ながらも仕合わせのなかにいるのだが、さて、それをどうするか。
当然、妻は現状維持を訴える。
この真相は誰も知らないのだから、記憶をもどす前の家族にもどって、また当たり前の日常にかえりましょうと。
んが、
刑務所の中には、彼の代わりに無実の罪で投獄された者がいる。
さあどうする。ジム・キャリー。
とここで、犯人捜しの解答が出た途端に、今度は贖罪の問題が浮上するのね。
実は、闇生のみるところこの映画のポイントは『23の謎』でもなく『真犯人』でもない。
この『贖罪』のポイントこそがそれなのではないかと。
現在の幸福を手放してまで自首するべきかどうかの決断。そこである。
利か、理か。
ところが、あまりに『23』で引っ張りすぎて、
なおかつ結局のところ23に執着した根拠がほったらかしなので、すっきりとここに力点が移らないのだ。
「たかが数字だ」
15でも、86でもよかったんだ。たまたま23にとりついただけ、的なことを言ってやっつけ半分にまとめていたと記憶するのだが、
おいおい。
あんまりだ。
たとえ他愛のない根拠であってもいいのだ。
23に執着する切っ掛けを出さんことには、ちゅうぶらりんではないのか。
これでは気になって贖罪に集中できない。
全体的にパラノイドに陥る過程が長くて眠かった。
なので、エンドロールでデヴィッド・シルヴィアンに不意打ちをかまされて、我にかえるの巻であった。
☾☀闇生☆☽
この映画もまたケータイ以前の設定らしい。
冷蔵庫に書き置きをマグネットではさむ風情。
いいもんです。
追記。
これを書き終えてすぐ新宿へ向かった。
今日から上映の始まる『冷たい熱帯魚』を見たろーかと。
んが、
劇場の前で、どの回もすでに立ち見であると知り、すごすごと引き返してきたのであーる。
なんとまあ、
このご時世にアナログな野郎か。
いまどき行き当たりばったりに封切りを狙うなんてさ。
ねえ。
劇場に着くまで検索ひとつしようとしないんだから。
けど、いいんです。
いいんですってば。
映画という不合理に利便性でもって挑んでどうするというハナシである。
……と、
ここはひとつすねときましょ。